(1)
★ただ生きているだけで、心は汚れていく。
 悪い想念が絶えず脳裏を掠めるからだ。
 だが、座る瞑想を始め、全身の体感を感じた瞬間、意識モードが切り換わっていく。
外界に突き刺さっていく意識の矢印が自分の内面に向けられる。
 愚かな自分、汚れた自分、傲慢な自分を痛切に懺悔したくなる。
 瞑想は心を浄化する……。
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(2)
★解脱した聖者でも、因果が帰結し、業が異熟(現象化)する力に抗うことはできない。
 2度刺客から逃れた目連尊者も3度目は凶刃に倒れた。
 ブッダですら足指に棘(とげ)を刺し、背中に疼痛を覚え、罵詈雑言を浴びせられた。
 病むこともあれば死ぬこともあり、因縁があれば必ずそうなってしまうのが業の異熟である。
 必然の力で起きたことはありのままに受け容れる覚悟を定め、なすべきことをなし、慌てず、騒がず、瞑想を続けていけばよい……。
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(3)
★不安も、ストレスも、ブチ切れるのも、集団ヒステリーも…すべて思考や妄想が惹き起こした反応に過ぎない。
 思考モードを離れれば、全てが雲散霧消するだろう。
 新たな視座から再解釈し、認知が変われば、印象世界が一変する。
 だが、「存在」=「現象の流れ」の本質を洞察しなければ、果てしない認知の塗り替えを虚しく繰り返すだけとなる・・。 
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(4)
★思考が止まろうが、禅定に入ろうが、瞑想を終了し日常モードに戻れば、不安もストレスも劣等感も回帰してくるだろう。
 ものごとの受け止め方が、発想が、思想が、本心が、変わらなければ、どんな瞑想も「現世の楽住に過ぎない」(削減経)。
 心の反応パターンを根底から書き換える覚悟とその実践こそ真の瞑想……。
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(5)
★瞑想をすれば、心が変わり、生き方が変わり、人生の流れが変わっていくが、煩悩が根絶やしになる訳ではない。
 煩悩滅尽の奇跡は、解脱の瞬間にしか訪れない。
 人の心は無常の法則に貫かれ、条件しだいでどのようにでも変わってしまう。
 悟りの第一段階(預流果)に入れば、二度と転落も後戻りもない、とブッダは言う。
 それまでは、貪りも、怒りも、嫉妬も、高慢も、あらゆる不善心によく気をつけて遠ざけ、反応系の心を段階的に組み替えていく。
 マインドフルネスを維持するサティの技術と、総力戦の智慧の修行……。