日が暮れかかった頃、近隣の沼の畔を散策した。
 何の変哲もない水面が夕陽に照り映え、異様な輝きを帯びて、刻一刻と化けていく……。
 あるがままの法としての存在は見難く、脳内フェイクの印象に執着し、最期までダマされ、かされ、たぶらかされながら、また死んでいくのか……。

 肉眼で見た世界は、写真のようなフレームも構図も何もない空間の拡がりに過ぎない。
 視覚を最初に直撃したものが、「乱反射する夕陽」「湖面にさざ波を刻んでいく風」と認識された瞬間、概念化されてしまう。
 写真の美しい色や輝きが一度心に焼き付くと、事実は消え失せフェイクしか残らない……。

 自分が何をやってきたのか、何を話し、どんなことを考えてきたのか、自分の人生そのものだった経験事象がおぼろになり、やがて忘れ去られていく……。


 のみならず、心に焼き付いたはずの記憶が修正され、リメイクされ、事実とかけ離れた妄想のドラマに変容し、エゴの脳内劇場で再演されていないか……。

 大嫌いな人、かけがえのない家族、無二の親友……がいるのだろうか。
 激怒したり、安らぎを覚えたり、癒された一瞬一瞬に作られた過去の業が、その日その瞬間の経験事象として帰結しているだけではないか。
 揺るぎない絆や犬猿の仲があるのではない。
 業が生滅する束の間の事象の流れがあるだけ……。

 真実であってもフェイクであっても、過ぎ去ってしまえば夢のようだ。
 信頼の絆で結ばれていた掛けがえのない人も死に、毒々しい嫌悪の念を向けてきた人も死んだ。
 愛も信頼も尊敬も嫌悪も軽蔑も……事実が歪曲されて編集されたエゴの脳内劇場。
 もう猿芝居を止めたいのだが、幕が下せず立ち尽くす日々……。

 自分がこれまでに犯してきた罪業の数々、激怒した瞬間、暗愚な思考……その全てが形成した業を思えば、地獄行きだろう。
 心から人のために力を尽し祈りを捧げ、寺に布施をし、懸命に瞑想した一瞬一瞬の業は、天界への再生に通じるかもしれない。
 地獄も、餓鬼も、畜生も、修羅も、人間も、天も……、もう、因果に縛られた業の世界は、うんざりだ……。

 苦受を受け楽受を感じているのはこの「私」だ……という印象は、エゴ妄想に過ぎない。
 なるほど、「私」が苦しいのではなく、苦の事実があるだけか。
 でも……、だから、どうだというのだ。
 業の結果を受けた瞬間、否応なく反応して新たな業を作り続ける輪廻の流れを、これからも永遠に続けるのか……。