(1)
★日が暮れかかった頃、近隣の沼の畔を散策した。
何の変哲もない水面が夕陽に照り映え、異様な輝きを帯びて、刻一刻と化けていく…。
あるがままの法としての存在は見がたく、脳内フェイクの印象に執着し、最期までダマされ、空(す)かされ、誑(たぶら)かされながら、また死んでいくのか……。
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(2)
★肉眼で見た世界は、写真のようなフレームも構図も何もない空間の拡がりに過ぎない。
視覚を最初に直撃したものが、「乱反射する夕陽」「湖面にさざ波を刻んでいく風」と認識された瞬間、概念化されてしまう。
写真の美しい色や輝きが一度心に焼き付くと、事実は消え失せフェイクしか残らない……。
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(3)
★自分が何をやってきたのか、何を話し、どんなことを考えてきたのか、自分の人生そのものだった経験事象が朧(おぼろ)になり、やがて忘れ去られていく…。
のみならず、心に焼き付いたはずの記憶が修正され、リメイクされ、事実とかけ離れた妄想のドラマに変容し、エゴの脳内劇場で再演されていないか……。
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(4)
★大嫌いな人、かけがえのない家族、無二の親友…がいるのだろうか激怒したり、安らぎを覚えたり、癒された一瞬一瞬に作られた過去の業が、その日その瞬間の経験事象として帰結しているだけではないか。
揺るぎない絆や犬猿の仲があるのではない。
業が生滅する束の間の事象の流れがあるだけということ……。
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(5)
★真実であってもフェイクであっても、過ぎ去ってしまえば夢のようだ。
信頼の絆で結ばれていた掛けがえのない人も死に、毒々しい嫌悪の念を向けてきた人も死んだ。
愛も信頼も尊敬も嫌悪も軽蔑も…事実が歪曲されて編集されたエゴの脳内劇場。
もう猿芝居を止めたいのだが、幕が下せず立ち尽くす日々……。
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(6)
★自分がこれまでに犯してきた罪業の数々、激怒した瞬間、暗愚な思考…その全てが形成した業を思えば、地獄行きだろう。
心から人のために力を尽し祈りを捧げ、寺に布施をし、懸命に瞑想した一瞬一瞬の業は、天界への再生に通じるかもしれない。
地獄も、餓鬼も、畜生も、修羅も、人間も、天も…、もう、因果に縛られた業の世界は、うんざりだ……。
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(7)
★苦受を受け楽受を感じているのはこの「私」だ…という印象は、エゴ妄想に過ぎない。
なるほど、「私」が苦しいのではなく、苦の事実があるだけか。
でも…、だから、どうだというのだ。
業の結果を受けた瞬間、否応なく反応して新たな業を作り続ける輪廻の流れを、これからも永遠に続けるのか……。