(1) 歩くことは、極めて高度な脳の働きによって支えられている。
ギリシアの賢者達が歩きながら哲学していたのも、脳科学的に理に叶っていたようだ。
私も、原稿の筆が渋り、アイデアに行き詰まると、歩く瞑想をしながら近辺での所用を果たすことにしている。
ほぼ確実に閃きが得られている。
(2)この世の煩悩の対象であろうと、彼岸の超越的な対象であろうと、求めている執着の手を離さない限り、苦しみが生まれてくる。
執念で得たものも無残に壊滅していくのが業の世界だ。
ゲットしても、永遠の不満足性がくすぶる。
限りなく手放して、究極の引き算の果てに拡がる安息と静寂……。
(3)昔、まちがえて洗顔フォームを歯ブラシに塗り、口に入れた瞬間、ギャッと叫びたくなる違和感を覚えた。
「毒!」と判断せず、歯磨きの味も分からなくなった自分の味覚不全を責める意識が過ったことに感動した。
『何があっても、自分が悪い』と考える修行を必死でしていた時代だった……。
(4)「瞑想なんて、ただボーッとして、いい気持ちになってるだけだよ。あんなものやったって、どうもないわ」
では、一瞬一瞬の身体感覚を感じながら、サティを入れて歩く瞑想はいかがですか。
歩いている自分に気づいて、自分を対象化し客観視する練習です。
自己チューの視座の転換……。
(5)何も考えないだけなら、蛙やトンボや眠りこけている人と同じではないか。
なんとなくまぶたの裏をボーッと眺めている鈍重な無思考状態では意味がない。
音や匂いや思考が浮かんだ一瞬の、リアルな現実に明敏に気づく意識の修練。
そこからだ、存在の本質を洞察する智慧が閃き出すのは…… 。
(6)サティを入れ、余計な妄想を排除していくと、思考から生まれる欲望と怒りから自由になれる。
何も持っていなくても、苦の種である妄想と執着を引き算していった果てには、ただありのままの自分で豊かに自己完結していることに気づく……。