(1)他人を意識する。
不安を感じる。
緊張する。
・・・現在の瞬間にすべての注意を注ぎきることができれば、無心になれるのだが・・・。
(2)[尊師いわく、―]
「快く感ぜられる色かたち、音声、味、香り、触れられるもの、―これらに対するわたしの欲望は去ってしまった。そなたは打ち負かされたのだ。破滅をもたらす者よ。」(サンユッタニカーヤ1-4ー1-4)
(3)そのとき悪魔・悪しき者は尊師に近づいてから、尊師に向かって、詩を以って語りかけた。
―「かけ廻るこのこころは、虚空のうちにかけられたわなである。
そのわなによって、そなたを縛ってやろう。修行者よ。そなたはわたしから脱れることはできないであろう。」(サンユッタニカーヤ1-4ー1-3)
(4)六門に乱入してくる情報に刺激され、一瞬も止まることなく振動してしまう心・・・。
その究極のドゥッカ(苦)に追いつめられた心は、寂滅した静けさを目指す・・・。
(5)瞑想をしなければ、騒がしい心が苦であるという認識も生じないだろう。
想いが乱れ、心が乱れ、ネガティブな思考が心を駆けめぐって煩悩が生まれ、不善業が形成された結果、苦の現象に叩かれて苦受を感じる瞬間まで・・・。
(6)業の結果を受け取る心が一日中、落下する滝のように生滅を繰り返している・・・。
その心とワンセットになって、眼耳鼻舌身意の情報に反応しながら、業を作る心がたたき出されていくのも止まるところがない・・・。
「業の結果を受ける瞬間」→「業を作る瞬間」→「業の結果を受ける瞬間」→「業を作る瞬間」→・・・。
震え続け、反応し続ける心のシステムに圧倒され、翻弄され、拘束され続ける状態には、一瞬の自由もない。
安息もない。
静けさもない・・・。
(7)自信がなく、自己肯定感の乏しかった母親が、子供の卒業式にひとり涙した。
自分と同じ苦を受けないように、丁寧な愛情を注ぎ、全身全霊で子育てしてきた結果、 自己肯定感のある優しい子に成長し、一区切りが着いたのだ。
瞑想に出会いダンマを指針とし、揺るぎない決意があれば、苦は乗り超えられていく・・・。
(8)苦しい経験をしてきたがゆえに、人はダンマ(理法)に出会う・・・。