(1)苦しい人生が劇的に変化する感動に支えられてもきたが、全てがバラ色の幸福の絵に塗り替わって永遠に続く……などということがあろう筈はない。
 業があれば、苦の現実は苦のままである。
 それゆえに、どんなドゥッカ(苦)も受け入れれば終わっていく…というダンマの確認が繰り返されていった。
 苦楽も失敗も成功も、一切の事象を等価に観て、淡々と無差別平等にサティを入れていく瞑想を続けていくうちに、こんなことを述懐するようになっていた。
 「何もうまくやる必要もなく、苦を避ける必要すらなく、ただ今という目の前にある物事に気づいて、力を出すことを惜しまずに、淡々となすべきことを成していくだけなのだと、美しい春の朝の道を歩きながら実感していました……」

(2)人は、今の瞬間の事実に苦しんでいるのではない。
 消え去ってしまった現実は、もはや「過去」という名の妄想に過ぎない。
 苦しみは、その「過去」にしがみつき、囚われ、執着する精神から発生してくる……。
 それゆえに、聖者たちは、今のことだけで暮らしている……。

(3)瞑想を始めればすぐに華々しい成果が得られると勘違いするのは、多くの初心者の通弊と言えるだろう。
 初めて瞑想会に来て、「上手くいきませんでした。どうしてですか?」と真顔で訊かれる方も珍しくない。
 一度も触ったことのないピアノやヴァイオリンを初めて習った日に、「どうして上手くできないんですか?」と訊く人がいるだろうか?
 何事も修練を繰り返すことによって、新しい脳回路が形成されていく。
 定着させるのも容易ではないが、維持するのも、さらに進化させるのも大変なことである。
 どんな技能もスポーツも演奏も瞑想も、同じなのだと心得る。

(4)だが、ヴィパッサナー瞑想に正しく着手しても、生来の資質や傾向が手のひらを返したように変わることはない。
 急激な変化には反動があり、一時的な決意や戒めや外圧によって抑え込まれていたものは、やがて形状記憶合金のように元通りになっていく。
 ヴィパッサナー瞑想に出会い、くらくらする程のカルチャーショックを受け、物の考え方も行動も生活も別人のように一変したのだが、1年経ち2年経ちするうちに次第に失速し、浮かない顔で惰性に従っていたある日、忽然と姿を消していくような人もいる。
 ゆるやかに、少しづつ変化していくのが人の心である……。