(1)崇高な心も、醜い心も、煩悩に目が眩むのも、智慧が閃く刹那も、どの一瞬も真実だったのだ。
強引にまとめ上げた「自己イメージ」に執着すると、人生が苦しくなる。
他人のイメージも一つに要約し、まとめてはならない。
存在は一瞬の現象の連鎖であり、前後際断、個々別々と心得る……。
(2)一瞬の意志が、グラリと人生の流れを変えていく。
その意志は、どのように定められていくのか。
人の心は、どう変わっていくのだろうか。
(3)瞬間的にエゴ感覚が弱まったときに、自己客観視の任務を担ったサティが入るのだろうか。
瞑想修行の結果、サティの脳回路が自動化されてきたがゆえに、エゴの独裁支配を客観視する瞬間が訪れるのだろうか……。
(4)集合された無数の情報と要因が、必然の力で一つの反応を立ち上げる。
反射的かつ自動的なプロセスで一気に心のドミノを倒していくが、熱心にサティの瞑想をした者には、客観的に情況を把握する一瞬が訪れるだろう。
そのまま殴り倒す自由もあるが、上げた拳を下ろす自由もある。
闇も、光も……。
(5)何でも自分で考え、選び、自分の意志で決めていると錯覚している人が多い。
だが、自分の意志がはたらいた瞬間、その0.5秒前には既に脳の活動が始まってい ることを脳科学は明らかにしている。
自由意志とは、脳が膨大な情報処理をした最終結論を、ただ宣告するだけの役割で はないのか……。
(6)末端の現場の情報が経営方針を左右するように、中枢は末端の奴隷に過ぎないかもしれない。
一瞬の意志を決定しているのは「自分」ではなく、周囲の環境の情報と過去の経験、知識、親の影響、劣等感、トラウマ、長年の夢……等々、膨大な要因と諸力がはたらいた結果ではないか。
無我とは……。