はじめに ―波羅蜜について―
翻訳シリーズの第1回目として十波羅蜜についてお送りいたします。
波羅蜜とは何でしょうか。パーリー語ではpāramī(パーラミー)と言い、それに漢字を当てはめたものです。その意味は、といいますと英語でも様々な訳が付けられています。virtue(徳)、perfection(完成、完全)、quality(資質)。あえて日本語に訳すとすれば、「人格完成に必要な資質、徳」というところでしょうか。
なぜ波羅蜜を成長させる必要があるのか?
「ブッダの十徳」の中に、明行具足(vijjā caraṇa sampanno)という言葉が出てきます。智慧と徳行を兼ね備えたという意味です。悟りへの道は瞑想による智慧の成長だけでなく、徳を積み重ねて行くことによって完成されるようです。それでは、どのような徳を身につけて行けば良いのでしょうか。それを示したのが十の波羅蜜で、布施、持戒、離欲、智慧、精進、忍辱、真諦、決定、慈悲、捨、の十です(用語として「十波羅蜜」と称されます)。ブッダは前世において、膨大な時間をこの波羅蜜を積むことに費やしました。
………………………………………………………………
ブッダ前世の物語である「ジャータカ」に次のような話があります。
何劫もの昔、菩薩(悟りを開く前の、修行中のブッダ)がスメダ・バラモンとして生まれた時、生まれ、老い、死んで行くことは悲しみであると思いました。彼は再生からの解脱を求めて修行者になりました。ある時彼は、人々がディーパンカラ・ブッダ(燃灯仏)の行く道を掃き清めているのを見、喜んでそれに加わりました。ディーパンカラ・ブッダはスメダの仕事が終わる前に彼に近づきました。スメダは大いなる帰依の心から泥土の上に身を投げ出しました。彼はいつの日かブッダ(覚者)になろうという大きな思いを抱きました。ディーパンカラ・ブッダは、スメダの願いは必ずや満たされるであろうと明言しました。スメダは、これからの数え切れぬ菩薩としての生において、ブッダになるために十の波羅蜜を育てて行かねばならぬと思いました。
他の生命の幸福のために波羅蜜を積み、ブッダになろうと言う菩薩の決意は揺らぐことがありませんでした。彼は常に他の生命の苦を軽くしてやりたいという思いを持っていました。そのためならば自らの生命を与える用意もできていました。大きな困難や障害に直面した時でも、彼はブッダになるという最終目的にすべての心を向けていました。彼は私たちに対する慈悲の心から、私たちもまた悟りを得られるよう、不断にそして熱心に波羅蜜を実践しました。
菩薩はディーパンカラ・ブッダの前で、自らもブッダになるという決意をしました。そしてその後に続く23人のブッダの前でもこの決意を表明しました。彼はこれらのブッダ達の教えに耳を傾けました。そして、ヴィパッサナーによる洞察がブッダ第一の教えですから、菩薩は十の波羅蜜を育てると共に四念処(身・受・心・法へのヴィパッサナー)を育てて行かねばなりませんでした。さもなければ、ブッダとしての悟りを開くことができなかったでありましょう。
私たちは数え切れぬ生において、多くの煩悩を積み重ねてきました。それが時に応じて不善業(アクサラ)が起こる条件になっているのです。その煩悩のために、ブッダの数えの道を歩むに十分な力を持ち得ません。それゆえ私たちは、現実を正しく理解する力を育てながら、すべての善行を積み重ねる必要があるのです。
私たちは正しく悟りを開くようには定められていません。しかし、四念処(ヴィパッサナー)と共に波羅蜜を成長させるならば、いつかは分かりませんが、ある日、ある生において悟りを得る条件を作り出しているのです。波羅蜜の成長においては、私たち自身の利得を期待すべきではないでしょう。私たちの目的は煩悩の根絶にあるのです。もしそれが目的になっていないならば、布施も、持戒も、他の徳行も、悟りへと導く波羅蜜にはならないでしょう。(ニーナ・ヴァン・ゴルコム『The Perfections leading to Enlightenment』より)
私たちの中には瞑想に役立つ三つの資質があります。布施、持戒、慈悲です。しかしこれだけではありません。どんな精神生活にも必要な、育てていくべき資質が他にもあります。それらは波羅蜜(pāramī:パーラミー)といいます。最高を意味するparama(パラマ)から来た言葉です。波羅蜜の種子は私たちの中に既に蒔かれています。私たちは可能性として自らの中に波羅蜜の資質を持っています。それゆえ、私たち自身でなすべきことがあるのです。とは言え、私たちが本気で取り組まなければ、心の運命の支配者ともなりうるような強固で不動の精神を手に入れることはできないでしょう。
私たちは常に、他者の感情や善意、自分の周囲のものや楽しみに左右されがちです。こうしたものに依存する限りは、私たちはそれらの奴隷なのです。奴隷でいることはあまり快適な生き方とは言えません。それは多くの不安を伴います。誰しもがいくらかの恐怖感を抱いていますが、他者や外部環境に依存して生きれば、思想と行動の自由を得ることはできないのです。そして思想と行動の自由こそが、私たちを最終的に解放することができるものなのです。それは私たちが何でもしたいことをする、ということではありません。思想の自由とは、自立した思索家であり、独自の考えを持つことが出来、自らの行動を決定することができるということです。(つづく)