6.忍辱
次は忍辱、すなわち忍耐です。日常生活で忍耐心のない人は、よく落ち着きがなくなったり、不安になったりします。計画したことの結果を早く出そうとして、かえって効果的でないことをしようとします。
忍耐心がないとエゴがあらわになります。なぜなら、私たちは自分が計画したように物事が起こることを望むからです。また、物事が起こって欲しいときに起こることも望みます。自分自身の考えしか考慮しないのです。他の要因や他人が関与するということを忘れてしまっています。私たちはまた、自分がこの惑星の、40億人のうちの一人でしかなく、この惑星は銀河の中の、ほんの一点でしかなく、その銀河というものは無数に存在する、ということも忘れてしまっています。私たちはこうしたことを都合良く忘れ去っています。物事が「今」、自分の望み通りに動くことを望みます。前もって考えていた通りに物事が起こらないと、忍耐心のない人はたいてい怒り出します。これが忍耐心のなさと怒りの悪循環です。
忍耐強さがあると洞察力がついてきます。計画というものは、立てることはできるが、何ものかによって妨げられる場合もあることを、忍耐力のある人は実感するようになります。計画どおり行かないことが、かえって良い結果になる場合もありますし、うまく行かないのは、カルマの結果かも知れないのです。忍耐力のある人は、もろもろの妨げを受け入れる心構えができています。人生で起こったことを受け入れられないと、二重の苦を受けます。誰でも一つの苦は経験します。しかし、その苦を受け入れないと、苦は少なくとも二重になります。なぜなら、抵抗が苦を生むからです。力を込めて何かを押すと、手が痛くなってきます。手をドアや壁にそっと当てるなら、痛みは起きません。抵抗することや求めることが、私たちのすべての苦の源なのです。
忍耐強い人とは、できごとの全体を見ることができ、物事は変化し、動き、流転して行くということを理解できる人です。今日、たいへんな困難に思えることも、明日か、来月か、来年にはまったくすべて良し、と思えるようになるかも知れません。一年前に早急に必要とされたものが、今日ではまったくどうでもよくなっていたりします。こんな具合ですから、忍耐力のある人は、何が起きていても一方的な判断を性急に下さず、その出来事にただ注意を向けます。物事が、こうなって欲しいと望んでいたとおりにならなかったとしても、そのすべてを流転の一部でしかないと見なすのです。
波羅蜜が大いに培われるのは、何らかの洞察が生じたときだけです。そして、洞察は、正しい方向に進むのに必要な智慧と精進を培うための源泉であり、自己本位の性向に対抗するのに必要な忍辱と離欲の源泉です。なぜなら、すべては変化し(無常)、不満足なものであり(苦)、実体を持たないもの(無我)だからです。
仏教用語の「洞察」とは、この無常、苦、無我のどれか一つを透徹して見ることを常に意味します。無常・苦・無我は活動をやめません。活動をやめてしまうのは、それらに村する私たちの注意力のほうです。私たちは他の方向ばかり見ています。私たちはこの三つが好きではないので、抵抗し、拒絶します。その存在を否定し、さらにこの三つのものから逃れる方法について、ありとあらゆるアイデアを考え出します。無常、苦、無我から逃れるには、それらを受け入れ、理解し、それらに応じて行動するしかありません。この方法なら、完全に逃れられます。その他の方法は一時的な避難路でしかなく、結局は行き止まりになって振り出しに戻ってしまいます。
私たちは自分に対して忍耐強くある必要があります。自分に対する忍耐心がないと、他人に対して忍耐強くなることができません。自分に対して忍耐強くないと、自分を適正に評価することができません。私たちは、自分の能力や価値に対して誇張した考えを持っており、現実が自分の考えに従わないことを嫌います。例えば、自分はもう解脱しているはずだとか、自分は動かずに2時間坐り続けることができるはずだとか、眠らなくてもやっていけるはずだなどです。あらゆる「はずだ」です。こうした考えは、次に他人に振り向けられ、他人の欠点にいら立つようになります。
忍耐強さが無頓着に堕してはいけません。非常に忍耐強い人には、心が乱れないという素晴らしい性質があります。しかし、十分な洞察と智慧がないと、いわゆる忍耐強さは簡単に無頓着に堕してしまい、自分が何をしてもかまわないと考えてしまいますが、もちろん、これは正しくありません。健全であることと物事に熟達していることは重要なことです。忍辱を本当の波羅蜜にするには智慧を使わなければなりません。今起こっていることを受け入れ、それを生々流転するものだと見なす一方で、自分を成長させる方向へ向かう決意と精進を持たねばなりません。
無頓着な人は自分の服を見て、「あれ、服が汚い。これはどうしようもない。どんな服でも汚くなるんだ」と言うかも知れません。これは行き過ぎです。また、ある人は自分の部屋を見て、「部屋が散らかっている。どんな部屋でも散らかるんだ」と言うかも知れません。また、ある人は自分の家を見て、「ペンキが剥げている。でも、どんなペンキも剥げるんだ」と言うかも知れません。これでは、内面と外面の向上成長に自分を向かわせるのに必要な決意と精進を持たずに、すべてを起きるがままにさせていることになります。ある人は自分の心の汚れを見ながら、「でも、これはしかたがない。誰にでも食欲と嫌悪はあるんだ」と言い、その汚れをそのままにしておくかも知れません。これではまだ望ましい姿勢とは言えません。
他方で、食欲と嫌悪を自分の中に実際に見たなら、焦っても無駄です。時間がかかるのです。私たちは太古の昔から、この世で、繰り返し繰り返し、食欲と嫌悪を行動に移し続けてきました。食欲と嫌悪を取り除くには時間がかかります。必要なのは忍辱です。無頓着ではありません。(つづく)
(アヤ・ケーマ尼『Being Nobody, Going Nowhere』を参考にまとめました)