7.真諦
 さて、次は真諦(真理)です。これには多様な面があります。まず、言うまでもないことですが、真実を語る、ということが挙げられます。これは五戒の四番目、「嘘をつかない」という戒に当たります。しかし真諦はそれだけにとどまりません。私たちは、本当に心から正直になって、自らを発見する必要があります。これは大変困難なことです。自分以外の誰かのではなく、自らの不善を見抜くには、相当の智慧が必要です。他人のことなら、さほど難しくありません。かなり容易にわかります。けれども、自らの不善を見抜くのは難しいことであり、見抜くためには、真実への洞察と心底からの正直さが必要になります。
 それは、心の中を掘り進むように、自らに問いかけてゆくのです。最初の問いへの答えが得られたら、その答えをまた検討しなければなりません。「なぜ私はこんなことをしているのか」、「なぜこんな風に感じるのか」、「なぜこういう反応をするのか」というように。これらの問いを十分に深く掘り下げるならば、結局の所、答えはいつも「エゴ」であるはずです。「そう、それは私のエゴであり、自分ではどうすることもできないんだ」とか「それが私のカルマなんだ」と、軽々しい反応をしても役に立ちません。どちらの反応も非生産的です。なぜなら、私たちが自らの内側を何度も何度も掘り下げて、エゴの主張から来る結果を直視すれば、エゴの影響力を弱める、なんらかの方法を探し出したいと願うものだからです。
 他人が私たちを見るような目で、私たちが自らを見るのは大変難しいことです。私たちの前に鏡を置かなければなりません。姿形を映すのでなく、心や感情の成り立ちを映すのです。この鏡は、「気づき」と呼ばれます。時には、他人がどんな風に反応するかが鏡になってくれます。でも、それは全面的に真実とは言いがたいものです。その反応の中には彼らのエゴも入っていますから。ですから、主な仕事は、自らを問い直すということで進めて行かなくてはなりません。
 真理には他の面もあります。真理を知るということは、四聖諦を知ることであり、これが真実のダンマ(法)です。四聖諦がわかっているというのは、内なる洞察に依ってそれらを理解したということです。四聖諦とは、
 (1)「苦」についての聖なる真理、
 (2)「苦の原因」(すなわち褐変)についての聖なる真理、
 (3)「苦の原因の消滅」(すなわち解脱)についての聖なる真理、
 (4)「消滅に至る道」(すなわち八正道)についての聖なる真理、
の四つです。煎じつめれば、「真諦」(真理)という言葉の意味は、これだけのことに集約されます。

 すべての真理は結局の所、自由と解放へ導くものでなくてはなりません。人々は、あまたあるイデオロギーを通じ、いろいろな異なる方法によって真理を捜し求めています。それらのイデオロギーの中には、ある種の人々を抑圧する一方、別のある種の人々をもっぱら優遇しようとする、恐るべきものもあります。報復や支配につながるイデオロギーもあります。人間の心というものが、このようなイデオロギー、思考形式を創り出しているのです。悟っていなければ、人間は、エゴによる妄想の上に、自分たちのイデオロギーを創りあげます。したがって、どんなイデオロギーであれ、完全な満足をもたらすことはあり得ません。
 真理を追い求めることは善です。青年はぜひとも真理を問い続けるべきであり、年長者も追求を決して止めるべきではありません。しかし、不幸にも真理の追求は止まってしまいます。人々は、生き延びるための数多くの日常の責務で手一杯になり、すべての物事の下に隠されている真理を追求することなど、自分の能力を超えているように思うのです。そうなると、真理を求めるのに必要なエネルギーも興味ももはやありません。青年には、真理を見極めていこうとする分別がなく、年長者には、たとえ分別と経験があっても、真理を追求するだけのエネルギーがもはやない、というのは不幸なことです。まさにバーナード・ショーが言ったように、「若さが若者によって浪費されている」ことになります。
 真理を求めることは、一瞬たりとも止めるべきではありません。
 真理を求め続けるならば、最終的には、真理は人間が創り出せるものなどではないという認識に行き着くにちがいありません。真理は普遍的なものでなければなりません。それは、特定の人々、カテゴリー、性、国家、宗教にだけにあてはまるのでなく、万人にあてはまらなくてはなりません。真理は、人間の苦を取り除く道を示さなければなりません。しかも、一時的にではなく、特定のグループのためだけでもなく、完全に、元に戻らないように、苦を取り除くものでなければなりません。
 真理は絶対的なものであり、相対的なものであってはなりません。絶対的真理は、人々が抱えるさまざまな問題や私たちの日常的な問いかけを、はるかに超えたところにあります。それは、精神的な探求の世界に属しており、絶対的な真理を発見し得るのは、「精神的な道」の上においてです。私たちの住んでいる相対的な世界は、二元的な世界です。相対的な世界は、明日と昨日、善と悪、あなたと私、彼らと私達、「それが欲しい」と「それは欲しくない」といった、二元的なとらえ方で埋め尽くされています。そこには、「私の」人格と「私の」個性があり、「私が」主張し、「私が」成長したがっています。
 しかし、そのようなことは相対的なものであり、絶対的真理ではあり得ません。なぜなら、そうした状態では、すべての人を満足させることはできないからです。相対的なものは常に誰かの犠牲の上にあるものです。絶対的真理はこれらすべてを回避しなければなりません。絶対的真理を追求すれば、自己の人格や個性というものなどないという理解が徐々に生まれ、さらには、「私は」「私の」「私のもの」という考え方が誤りであり、「あなたは」「あなたの」「あなたのもの」というとらえ方が不幸な誤解であった、という認識が生じてくるでしょう。心配したり恐れたりすべき相手など、どこにもいないのです。すべては移り変わっており、堅固に見えるものは見せかけに過ぎません。絶対的真理は、特定の信仰を持ったグループや人々だけに当てはまるものではありません。
 絶対的真理は普遍的なものであり、八正道を実践することによって体験できます。波羅密の熟成によって内的な精神力が生じます。そして「絶対的な真実」へ向かって、「相対的な真実」を乗り越えていくには、多くの精神的な力が必要なのです。(つづく)
 (アヤ・ケーマ尼『Being Nobody, Going Nowhere』を参考にまとめました)