8.決定
 私たちが育てる必要のある次の資質は、決定(決意)です。決意なしには、私たちは何も成し遂げることができません。朝、起きることにすら、決意がいるではありませんか。
 他のものよりも多くの決意が必要なものもあります、たとえば、瞑想です。初めのうち、瞑想することはほとんどの人々にとって、何ら興味を引くものでもなく、快適なものでもありません。あまりワクワクするようなものでもないし、すぐためになるようにも思えません。
 私たちは、即座に結果を求める社会に生きています。ボタンを押すだけで、買い物リストの合計が出ます。別のボタンを押せば、フアンが回って、空気を冷やします。また、別のボタンを押せば、電灯が消えたり点いたりします。あらゆることの結果がすぐに出ます。私達の社会は以前にも増して、早急な結果の出ることを期待しています。それで、効果が現れるのに時間のかかる漢方療法よりも、鎮痛薬のほうがはるかに好まれるのです。
 瞑想は、ゆっくりですが確実に効果の出る治療法です。瞑想を実践するには、決意、言い換えれば、気骨ある性質が必要です。揺れ動く、ゼリーみたいな心では、たいした決意はできません。強敵で断固とした心にこそ、十分な決意を備えることができます。私達は坐るたびに、そこに留まる決意をしなければなりません。うろついたりせずに、心をその場所に留め、自分がしていることに注意を払い続けなければなりません。
 決意は日常生活でも必要です。物事が起こるのを待つという姿勢でいては、起こる見込みはまずありません。起こるように、何らかの行動を起こさなければなりません。瞑想コースに来るにも決意がいります。家にいるほうが快適でしょうからね。
 私たちは、いままでお話してきたような波羅蜜の資質を、自分の中にすべて持っています。「戒を守る」という道徳的な資質も確かに持っています。もし、ほとんどの人が持戒の資質を持っていなければ、世界はいま以上に大きな混乱に陥っているでしょう。私たちは「決意」という波羅蜜も確かに持っていますが、これらの波羅蜜が私たちにとって最良の友なのだという智慧が、心に深く根づいていません。
 私たちは、もろもろの波羅蜜に親しみ、それらが常に自分と共にありつつ、はぐくまれるよう努力しなければなりません。それらは、幸福で平和な人生に必要な要素であり、精神の向上に欠かすことができません。
 実際のところ、人生が私たちにもたらすことのできるものは、精神の向上だけなのです。それ以外には、つかの間の快楽しかありません。つかの間の快楽は、私達を自己満足に陥らせるので危険です。このことをはっきりと理解するなら、精神の向上を第一にしようという決意が生じるはずです。
 そのために僧院や洞穴に住む必要はありません。どこにいようと、私たちは向上することができるし、また堕落することもあり得ます。すべての出来事は、自分自身の教材として利用できます。例えば、病いや死、悪意、所有物の喪失、身体の不調や痛み、愛と名声などです。他者への執着や、他者についての心配も、教材です。何ごともありがちなこととして軽視せず、すべての出来事を成長への糧として役立てましょう。
 精神的成長と最終的な解脱以外に、人生が私たちにもたらす、価値あるものは何もないと気づくとき、決意が生じます。私たちは、ライフ・スタイルを変える必要はありませんが、自分自身の周囲や内部で起こっていることに対するアプローチ、反応、理解を変える必要があります。そのような決意をすると、正しい道を歩む喜びが生じ、幸福がもたらされます。そうした決意は、自己再生していきます。
 普通の決意は生じては滅してしまい、復活させるには奮闘努力が必要です。しかし、「精神的な道」への決意である場合には、幾度も呼び起こす必要はありません。精神的道への決意は、喜びをつくり出すのでそこに留まるのです。

9.10.「慈悲」と「捨」
 最後の二つの波羅蜜については、これまでに何度か触れてきました。すなわち「慈悲」と「捨」です。「捨」はすべての感情の中でも、最高の栄誉を与えられているものです。
 「捨」という波羅蜜は、エゴの創り出す幻想を無くすことを必要とします。エゴがすべての騒ぎや混乱を作っているという事実に、私たちがうすうすでも気づかないならば、本当に「捨」をはぐくむことはできません。不安や落ち着きのなさを抑圧しても、心の平安を感じることはできないのです。「捨」の根底には、洞察と智慧がなければなりません。
 これら十の波羅密は、一つの生から次の生へと何生にもわたって、培われていきます。やがてそれらが,「聖なる道」に至る解脱をもたらすほど強くなった時、私たちは、ダンマという法輪の中心にある四聖諦を、自らの内なる洞察となし得るのです。(完)
 (アヤ・ケーマ尼『Being Nobody, Going Nowhere』を参考にまとめました)