今月号から5回にわたり、「四人の友」と題して慈悲喜捨についてのダンマです。本誌2004年7月~12月に掲載され、一部については数年前の本欄で取り上げた個所もありますが、今回はフルバージョンでの掲載となります。なお再掲載にあたっては、読点や文言に若干の修正を加えた部分があることをご承知ください。

 私たちの心のなかには、呼び出されるのを待っている「四人の友」がいます。しかし同時に、機会があればいつでも飛び出そうとしている五人の敵(五蓋)もいます。その敵は決してじっとしていません。問題は、そうした敵を退けて友人だけと親しむほどには、私たちはつねに気を配ってはいないという点にあります。友人との親交を育むのはふさわしいことであり賢明なことですが、私たちには友と敵を見分ける方法がはっきりと分かっていないのです。
 私たちの友とは四無量心のことです。つまり「慈悲喜捨」です。もし自分のなかに四無量心が欠けているせいで自らが損なわれることが分かれば、私たちは四無量心を発達させるために何らかの策を講じることになるでしょう。

1.慈しみ
 言葉とは危険なものです。言葉は「永遠」という幻想を生み出します。私たちは言葉にとり固まれて生活していますが、それらは概念にすぎません。言葉は現実そのものではないのです。「川」という言葉を想像してみてください。「川」という言葉によって流れる川の現実を表わすことは不可能です。「川」という言葉は動きませんが、川の本質は流れていることにあります。
 「慈しみ」も同様です。心から実際に流れ出てこないかぎり決して存在しません。単に言葉のなかに留まっているだけでは無意味です。価値がありません。
 「慈しみ」という言葉も、「川」という言葉と同じくそれ自体にはなんの意味もないただの記述であり、その実態を知るためには実際の経験が必要です。もし何も知らない小さな子供に「川」という言葉を言っても、何のことか分からないでしょう。しかし、その子の手を実際に水につけて川の流れを感じさせてやると、「川」という言葉を知っているかどうかにかかわりなく川がどんなものか分かるでしょう。
 同じことが「慈しみ」にも言えます。「慈しみ」という言葉自体に意味があるわけではありません。実際に自分の心からそれが流れ出てくるのを感じたときに、初めてブッダがたくさんの法話のなかで語っていたことが何であるかを知るのです。

 私たちは感情と知性の両方を働かせて生きないかぎり人生を十分に生きているとは言えません。
 よく犯す過ちですが、感情だけで生きていると感情過多の生き方に陥る傾向があります。感情過多の生き方とはすべての物事に対して反応してしまう生き方で、それではうまくいきません。
 また知性には知性の果たすべき役割があります。人は何が起こっているのかを理解しなければなりません。しかし単にしっかり理解するだけでは知的な成長はあっても感情が伴ってきません。
 感情と知性という二つのものは手をたずさえて一緒に働く必要があります。私たちはものごとを理解するとともに自分の感情を積極的に用いなくてはなりません。つまり感情が自分の心を満たし、平安と調和の感覚をもたらすようにするのです。

 「慈しみ」あるいは「愛」というものは――この二つの言葉のうちどちらにあなたが意味を感じるかにかかわらず――愛する人がいるからとか、家族や子供と共にいるからとか、誰かが愛するに値するから、といったことの結果として生まれる感情ではありません。そういう功利的で本能的な反応は、ここでいう「慈しみ」や「愛」とは何の関係もありません。しかし実際には、誰もがそんなふうに反応してしまいがちです。

 自分の子供を愛するのは特に難しいことではありません。ほとんどの人はうまくやります。自分の親を愛するのもたいへん難しいというわけではありません。なかにはそれさえできない人もいますが、ほとんどの人は何とかやっているものです。しかし、これらは「慈しみ(Metta)」を意味するものではありません。
 ブッダが説く「慈しみ」とは、どんな生き物も差別しない心の質のことを指しています。「慈経」に書かれている最も崇高な願いは、「すべての衆生をただ一人のわが子のように愛すること」です。
 子供がいる人なら自分の子供に対して抱く感情は知っていますから、その他の人々に対する感情との違いがわかるでしょう。自分の子供に対してどんなふうに感じ、他人に対してはどんなふうに感じるでしょうか。ここに人として取り組むべき課題があります。つまり、すべての衆生をわが子のように思えるくらい自ら進んで自分の心を清浄にしない限り、「慈しみ」とその重要性は理解できないのです。

 自転車からころげ落ちて泣いている子供を見たとき、その子を起こして慰めるのは自然なことです。それが「慈しみ」でありそんなに難しいことではありません。難しいのは、すべての人々に対してそういう慈しみの感覚を起こすことです。なにしろほとんどの人々はさほど愛すべき人ではないのですから。
 誰からも慕われるような人は私たちのなかにはいません。誰からも慕われるに値するのは阿羅漢だけです。私たち自身が誰からも慕われているわけではないのに、どうして他の人にそれを期待することができるでしょうか。
 なぜ私たちは愛したいと思う人と愛することのできない人という区別をしてしまうのでしょう。私たちが適切だとみなすやり方でふるまわない人々を愛せないのは当然だと、私たちは思っています。けれども、私たち一人ひとりも含めていつも適切に行動できる人などいません。
 ちょっと考えてみればわかるように、私たちは皆人生においてさまざまな間違いを犯してきました。他人の人生については分かりませんが、自分自身の人生を見ればそれは断言できます。誰でもが間違いを犯すのです。自分でさえできないというのになぜ他人には完全であることを期待してしまうのでしょう。

 「慈しみ」には、三つの段階があるといえます。
 第一の段階には「好意」と名づけるのがよさそうです。
 私たちは互いに好意を持ちます。それは人々が一緒に暮らす時に第一に必要とされるものです。互いに好意をもたなければ一緒に瞑想さえできません。私たちは立ち上がって歩き回ることもあれば皆が静かにしているときに昔を立ててしまうこともあるでしょう。人々が互いに好意をもってなければどんな国も存在できません。
 私たちがどれだけ互いに依存しあっているか今までに考えたことがあるでしょうか。手紙の配達は郵便屋さん、野菜や果物は八百屋さん、米は農家の人、水は町の水道局というようにそれぞれに頼っているのです。私たちは隣人の好意に頼っています。好意は生きていく上で基本的に必要なものですから、たいていは皆が何とか好意を保っています。互いへの好意がなくなると無秩序状態に陥ります。

 「慈しみ」の第二の段階は「友情」と呼ぶのがいいでしょう。私たちは、ある種の人々、すなわち友人や隣近所の人々、知人、私たちに良くしてくれる人々に対して友情を感じます。友情は慈しみへの一歩ですがまだ本物の慈しみではありません。
 友情には人の心を引きつけ、他人が私たちに親愛の情を抱くようにさせる性質があります。しかし、そのなかには害になりそうな愛情も含まれています。すなわち「愛着」です。私たちは愛着を好ましいものだと思っていますがそこには執着が含まれています。友人や仲間、助けてくれる人々、同居する人々に対する執着です。
 このような執着は憎しみを作り出します。愛着を感じている人々に対するダイレクトな憎しみと言うより、その人たちを失うかもしれないという思いからの憎しみです。そこには恐れがあります。憎んでいるものに対して私たちは恐れを感じることしかできません。そのため愛は純粋なものではなくなります。執着は愛を不純なものにしてしまい、満足感は減少します。完全な満足を感じることはできなくなります。これが家族のなかで起っていることです。以上のようなわけで、この種の愛着にはいつも不満足感が付きまとうのです。

 自分の家族に対する愛を、慈しみの感情を体験するための「揺りかご」にしましょう。そのなかで慈しみの感情を育て大きくし、さらに広げていくのです。そうすれば家族への愛はそれにふさわしい意義を持つことができます。さもなければ、よくありがちなことですが、家族への愛は沸騰するやかんのように激しい感情の温床になってしまいます。
 家族のなかでの愛情は心の中に真実の慈しみを育てるために使われるべきです。真実の慈しみは、「私の夫、妻、娘、息子、母、父、祖父、祖母、叔父、叔母……」だから、という条件づけによって生じるものではありません。そうした条件づけはすべて「私の」とか「私のもの」といった感覚を生んでしまいます。
 そうした感覚を超越して無条件の愛にまで育てない限り、家族の愛はその目的を充分に果たせません。にもかかわらず、家族の愛はエゴを支えたり生きつづけたりするために使われてきました。生きつづけるということは達成不可能な目標であり、いくら私たちが努力しても無駄なのです。原子爆弾が落ちようと落ちまいと、私たちはずっと生きつづけることはできません。私たちの誰もが向かう場所、出あう場所は結局一つしかないのです。
 友情も同じく、執着と呼ばれる困難に付きまとわれています。私たちは友人たちに執着しています。彼らを失いたくないのです。ですから、彼らが友人でいてくれるよう彼らに良くします。そして、同じように彼らが私たちに良くしてくれないと、すぐにこのまま友人でいるべきかどうかと考えます。自分が与えたのと同じ友情や思いやり、配慮が返ってくることを期待します。これではまるで営利事業のようになってしまいます。
 自分が何かを与えると同じ価値のものが返ってくることを期待する。これはほとんどの人が当たり前にやっていることで、私たちはそれについて考えもしません。こうしたことは友人たち同士でも起こりますが、愛する人とのあいだではより頻繁に起こります。与えた愛を返してもらえないと私たちは喪失感と悲しみと落胆を感じます。相手がどこかへ行ってしまうと愛が失われたかのように思います。けれとも、一人ないし二、三人の間だけで愛を独り占めするという考えはおかしくないでしょうか。

 愛は一人の人間のなかに閉じ込めておけるものではありません。人間は骨と三十二個の器官を収めてそれを皮膚で包んだ袋に過ぎないのです。そんな袋のなかにどうやって愛を閉じ込めておくことができるでしょうか。しかし、有名な悲劇はすべてそういう愛についての物語なのです。
 「ロミオとジュリエット」や「風とともに去りぬ」などは、誰かが離れていったり相手に興味を失ったり、死に別れたりする話です。人間は死によって、あるいは考えや気持ちが変わることによって互いから離れざるをえません。彼らが別れるべきか否かが問題なのではありません。愛を一人や二人の人間のなかに閉じ込めておくことはそもそもできないのです。

 愛は、ある特定の感情のなかに囲い込まれた状態で存在しています。ですから私たちは家族への愛を活用して愛のこもった感情を拡げて大きくするようにしなければなりません。さもないと、自分が執着している人が何かの理由で離れていくときに私たちはきっと傷つくことになります。
 家族愛の一番重要な目的は愛のこもった感情について理解すること、そしてその愛をもって行動することです。愛をもって行動するのは、10日間の瞑想合宿や慈経を唱える時だけに限りません。知性や感情は照明のように自由に付けたり消したりできません。私たちが愛をもって行動できるようになるには、忍耐と決意をもって知性と感情を体系的に訓練する必要があるのです。(つづく)
 アヤ・ケーマ尼『Behg Nobody,Goig Nowhere」を参考にまとめました。(編集部)