承前)
 心は本来、慈しみを常に感じるようにはできていないので訓練される必要があります。心はもともと愛と憎しみの両方を持っています。悪意、拒絶、怒り、恐れとともに愛も持っているのです。しかし日常生活のなかでは、なんらかの策を講じて憎しみを減少させ愛を増大させようとしないかぎり、慈しみが心に作り出す安らかな感覚は体験できません。
 愛――他者に対する無条件の愛――を自分の心に持つことは心に安心感をもたらします。そうなると、ものごとにどう対処したら良いかが分かりますし、自分自身を信頼できるようになります。何の恐れも持たずに完全に自分を信頼できます。たとえわずかでも心の平安を損なう憎しみや怒りの反応が起きないように、自分自身を訓練できることも分かってきます。こうしたことが心に慈しみを育てることによって得られる第一の、そして最も重要な成果なのです。
 慈しみの心がもっとも育まれるのは、まったく愛されそうにない人と対する時です。そういう時にこそ私たちの感情と知性を本当に変えることができます。そのような時には、私たちは変化せざるを得ないのです。
 たいがいの人には、慈しみの心をもって対するのが難しい人がいます。でも私たちはそういう人がいることに感謝すべきです。とはいえ、あとで振り返って感謝するのは簡単なのですが、実際にそういう人に面と向うとありとあらゆる否定的な感情が湧き起こってきてしまいます。嫌悪、憎しみ、それらの感情に対する正当化や合理化、怒りなどが湧き起こります。こうしたすべての否定的な感情が起こる時こそ慈しみを実践する時です。まさに絶好の機会と言えます。

 そのような機会を持ちながら活用しないとすれば、それはまったく残念なことです。もし愛することが難しいと思われる人が今はいないのなら、すべての人を慈しみの対象にしましょう。相手が誰であろうと何をしていようと、何を信じていようと、すべての生き物は私たちが慈しみを身につけるための状況を提供してくれます。彼らが何を言おうと、あなたに興味があろうとなかろうと、彼ら自身が慈しみを持っていようといまいと、それは問題ではありません。どうでもよいことです。
 唯一重要なのは自分の心であり、ただそのことだけを心に留めておけば良いのです。
 「私の心が慈しみに満ちて、すべてをあるがままに受け入れ、心から怒りと憤りをなくすことができたなら、ダンマ(法)の道への大きな一歩を踏み出したことになるだろう」
 私たちはダンマを理解し、自分のものにし、それによって生きなければなりません。
 他者に対する反応を変えるべく、自らに働きかける機会は誰にでもあります。
 誰もが四六時中人に会っていますが意見の違う人は必ずいるものです。そういう時、固く口を閉ざして何も言わないようにしたからといって慈しみを育てることにはなりません。そんな態度が作り出すものは、せいぜい憤りや抑圧や心配、あるいは無関心でしょう。そのようなものでは慈しみを育てる助けになりませんし、心を浄化することにもなりません。真心をもって相手に応対できるという確信が持てるようになってこそ、自分への信頼感と安心という大きな成果が心のなかにもたらされるのです。

 ブッダは「慈しみによって得られる十一の利点」について語っています。はじめの三つは「幸福な眠り、悪夢を見ないこと、幸福な目覚め」です。寝つきが悪いとすれば、それは、慈しみの心が欠けているからだと言ってもよいでしょう。
 不眠の問題は睡眠薬では解決しません。慈しみによって解決するのです。慈しみの心があれば潜在意識は不快な働きをしなくなり、不吉な夢や悪夢も見なくなります。すべての衆生に対する慈しみの心があれば、前夜眠りについた時と同じ気分で翌朝も目覚めることができます。
 夜にバランスシートを作るのも役立ちます。心の中で作るだけでもかまいませんが、気が向いたら実際に書いてみるのもよいでしょう。バランスシートの一方に「今日、他人に対し、何回ぐらい慈しみの心を抱いたか」を書き込みます。もう片方の欄には「他人と関わった時、どれほどしばしば怒りや苦痛、憤り、拒絶、恐れ、不安を抱いたか」を書き込みます。それぞれを合計してみてマイナスの方が多ければ、その状態を変える解決策を考えましょう。すぐれた商店主はみんな一日の終わりにバランスシートをつけ、商品が客に受け入れられていないことが分かれば必ず改善策を講じるはずです。
 このようなことは一つの技術です。生まれつきの性格的欠点や能力の問題ではありません。すべての煩悩がなくなるまで自分自身を何度も変えてゆくための技術なのです。私たちがその技術に取り組むのは、他の人々がとても愛すべき人たちだからではありません。彼らはそんな人たちではありません。もし彼らが愛すべき人たちなら、天上の世界を歩き回っているはずです。この人間界には落ちて来ないでしょう。ここは31ある宇宙界の中で下から5番目の世界なのです。全部で31ある段階の下から5番目にいる私たちは、そこで何を期待すべきでしょうか。
 この世界にはたくさんの学ぶべきことがあり、それこそたちがここにいる目的です。この世界は大人のための継続的な学習クラスであり、人間界全体はそのために形作られているのです。私たちがこの世界にいるのは、快適さを見つけるためでも、金持ちや裕福になったり物を所有したりするためでもありません。有名になるためでも世界を変えるためでもありません。たしかに人々は様々な考え方を持っています。しかし厳密に言えば、人生は大人のための学習クラスであり、心を発達させ育てることが最上の課題なのです。それ以上に重要な課題はありません。

 私たちの心は美しいバラが雑草に取り囲まれている庭のようなものです。何よりも、雑草があると栄養が雑草に奪われてしまい、バラは育ちません。私たちか花や香りを楽しむこともできなくなります。ついには雑草がバラを枯らすことになるでしょう。同じことが私たちの心の中でも起こります。バラの茂みにあたるものは、私たちの心の中で育ちつつある慈しみです。雑草を刈り取り、花が見えて香りをかげるようにしておかなかったり、雑草を適当な長さに切り取らずに伸び放題にしたりしておくと、最後には雑草が慈しみをすべて枯らしてしまいます。その雑草とは怒りとそれにまつわるすべての感情のことです。
 ほとんどの人は自分を愛してくれる誰かを求めています。自分を愛してくれる人がほんの少しいて、愛をお返しする人もいるでしょう。しかし不運にも誰からも愛されない人もいます。そういう人たちは恨みや憤りを抱くようになります。しかし実は、まったく逆の態度をとるほうがうまくゆくのです。もし自分から愛そうとすれば、周囲には数え切れない程その対象になる人々がいます。なぜなら、すべての人は愛されたがっているからです。
 誰かが自分を愛しているからといって、自分が他者を慈しんでいることにはなりません。慈しみを施す人自身は慈しみを感じていますが、私たちのほうでは何も感じていません。自分のことを愛すべき人だと見てくれたことについて、ただありがたく思っているだけです。そのような思いもエゴを支え、エゴを肥大させることになります。逆に、誰かを慈しむことはエゴを小さくする方向へと私たちの心を向かわせます。私たちは他者に慈しみを施せば施すほどより多くの人々を慈しめるようになり、自分自身もいっそう慈しみ深くなれるのです。
 私たちの心が何を生み出すにせよ、生み出しただけの分量のそのものを自分自身の中に持つことになります。これはとても単純な方程式なのですが、ほとんどの人はそんなふうには理解していません。誰もが、自分を愛してくれるより多くの人を求めて探し回っています。しかしそれはうまく行きません。自分を愛してくれる人を増やそうとするのは愚かなことですが、人生において数多くの愚かな行ないをして来たのが私たち人間です。
 いま述べたことは、ブッダが説いた十一の利点の一つである「人間にも人間でない者にも愛される」という言葉に合致します。私たちが他者を慈しめばその他者は私たちに関心を持ちます。私たちを愛してくれる人々は大勢いるのです。私たちが他者を慈しむのは、私たちが何かを与えたいためでも、彼らが愛情を必要としているからでも、彼らが慈しみに値するからでもありません。私たちが他者を慈しむことができるのはひたすら慈しみを施すように心が訓練されてきたからなのです。
 それはちょうど計算練習のようなものです。いくつかの数字が目の前に示されればあなたはそれらを「足す」ことができます。合計を知りたいならそれぞれの数を「足す」以外にやるべきことはありません。あなたの心も同じように訓練されてきました。つまり、心が訓練されていれば何が起ころうとも慈しみを施せるようになるというわけです。

 「天人(デーヴァ)が人を護る」という言葉があります。天人とはより高い世界の存在で、守護天使です。他者を慈しむ人は護られているのです。ところが人々はしばしば、「もし誰かがあなたに意地悪をした時に慈しみをもって応えたら、相手はあなたを弱い人間だと思い、あなたを好きなように利用するのではありませんか」と反論します。
 たしかに人々はそうしたがる傾向があるので、それは大いにありうることです。しかし彼らがそうするなら、彼らは自分たちにとって悪いカルマを作っていることになるのです。慈しみの心をもった人は決してその慈しみを失いません。自分の心の中にある慈しみがどうして失われたりするでしょうか。
 もし誰かがあなたを利用したとしたら、それは、あなたの心がすでに訓練されているかどうかを知る機会です。心に怒りを抱いていないかどうか、あなたが相手の人を本当に大切に思い、慈しみをもって応えられるかどうかを知る機会なのです。それはまた、私たちがなすべきことをしているかどうかを確かめる機会でもあります。もちろん、慈しみには他人の権利に配慮することも含まれています。つまり、他人を利用する人には慈しみが欠けていることになります。
 慈しみをもって対応すると弱さを見せることになるのではないかと私たちは恐れがちです。しかし、そのような弱さがあると考えるのは誤りです。なぜなら、慈しみは私たちに弱さではなく、強さを与えるものだからです。慈しみの感情だけを抱いている人には懸念がなく安心感に包まれており、何ごとも彼らを動揺させないのでいつでも安らいでいます。慈しみは心を強くするのであり、弱めはしません。しかし激しい感情と結びついた慈しみ――これも「慈しみ」だと誤解されることがよくあるのですが――は、相手への依存心を生み心を弱くしてしまいます。慈しみが単独の感情として心のなかにあり、それによって心が育成されるならば、心は岩のように強くなります。ある人が護られるのはその人自身の心の清浄さによって護られるのです。

 「速やかに集中できる」ということも「慈しみの十一の利点」の一つです。瞑想の修行を自らへの慈悲の心をもって始めるのはそのためです。心は「寛容さ(布施)、戒を守ること、慈しみ」の三つの基礎がなければ集中することができません。これらは、瞑想の三本柱であり、それによって瞑想修行は支えられます。
 「慈しみ」という感情は集中するために絶対に不可欠なものです。それは心に平安と静寂を作り出すからです。もしも慈しみの心が欠けていると思われるなら、瞑想の前に「慈悲の瞑想」をすることが慈しみの心を養うことを助けるでしょう。(つづく)
 アヤ・ケーマ尼『Behg Nobody,Goig Nowhere」を参考にまとめました。(編集部)