(承前)
 心ある人なら誰でも国際平和が実現していないことを嘆きます。誰もがこの地上に平和が訪れることを望んでいますが、平和がないことは明らかです。20世紀から現在にいたるまで、ほとんどいつでもどこかで戦争が行われています。どの国にも、多大なエネルギー、金、人的資源をつぎ込んだ巨大な防衛システムがあります。この防衛システムは、誰かが敵意のある発言をわずかでもしたり領空や領海を侵犯しそうな動きを見せたりしたとたん、攻撃システムに変わります。このような変化は、「私たちは国民を守るために国境を防衛しなければならない」という理屈により正当化されます。軍備縮小は私たちの望みであり願いですが現実ではありません。なぜでしようか。

 それは、軍縮とはすべての人の心から始まらなければならないものであり、そうならないかぎり全面的な軍縮は決して実現しないからです。
 じつは私たちの個人レベルで大規模な防衛と攻撃がつねに起きています。私たちはいつも自分のセルフイメージを防衛しようとしています。もし誰かが私たちを軽蔑的なまなざしで見たり、もしくは十分に評価したり愛したりしてくれなかったり、あるいは非難などしたら、その防衛は攻撃に変わります。なぜならば、私たちは「私」という「この国」を防衛し、そこに住む「自己」という国民を守らねばならないと思っているからです。世界中のほとんどの人がそうしているので、すべての国も同様に振る舞うことになるのです。
 すべての個人が変わらないかぎりこの事態が変わる望みはありません。それゆえ、私たちが自身の内面の平和のために行動することが私たち一人一人に課せられた課題なのです。おのおののエゴがいくらか減少すればそれは可能です。しかし、エゴが減少するのは自分の内面で起こっていることを情け容赦なくあるがままに見るときだけです。
 思考にラベリングすることはそれを行う手段の一つです。ラベリングを行っていると、やがて自分がどんな馬鹿げたことを考えているかが分かり、自分自身や自分の思考能力について抱いている仰々しい妄想が少なくなります。
 これがヴィパッサナー瞑想の特徴の一つです。情け容赦なく正直に自己に対するというのは、自分に不快な感覚や感情があって対処できずにいるときにそれを認めることでもあります。たとえば、自分が官能的な満足をつねに求めていることを認めるのです。そのような情け容赦のない正直さによってエゴを少し減らすことができます。それを実行してゆけば苦しみへの共感が現実に可能になります――単なる言葉ではなく苦しみへの本当の共感になりうるのです。

 言葉を使うのはたやすいことです。しゃべることのできる人なら誰でも言葉を使えます。6歳以上の子どもなら慈しみの説法(『スッタニパータ』I.143-152)を繰り返し声に出して言うことができます。とても素晴らしいことのようですが、それが何になるでしょう。そうした言葉の繰り返しだけでは感情は湧き起こりません。
 しかし私たちは感情に従って生きています。ですから、自分自身の感情を知ることがまさに必要不可欠なのです。私たちは自分の思考に従って生きていると思っていますが、じつは違います。感情が最初で次にその感情に対する反応が生じます。そしてその後に思考過程がその反応を正当化します。
 自分の感情を理解することは最も重要であり、必要不可欠です。愛するとはどういうことか、あるいは、苦しみへの共感を抱くとはどういうことかを知ろうとするとき、それらを感じずにどうやって知ることができるでしょうか。
 あるいは、それらについて知ることはできるかもしれませんが、自分で感じとれないならばどうやってそれらを現実化させられるのでしょう。解脱とは「知ること」ではなく「感じること」です。誰もが「私」というものを感じています。誰もが自分の名前を知っていると同時に、その名前が他ならぬこの「私」のことを表しているとも感じています。人は自己というものを感じることができます。ですから、非我に到達するためには非我も感じられねばなりません。

 苦しみへの共感は心に湧き起こる感情であり、特別な理由や条件を必要としません。まったく何の条件もなしに生じえます。私たちは特別な機会、すなわち、誰かが悲劇に見舞われるとか、体がとても痛いといった機会が訪れるのを待つ必要はありません。そうした機会が訪れなければ苦しみへの共感が自分自身のなかに生まれないとしたら、そのような共感は生じたり生じなかったりする類のものだということなり、おそらくは生じない場合の方が多くなるでしょう。
 そのような心は苦しみへの共感を抱く心の状態ではありません。苦しみへの共感を抱く心は――慈しみの心と同じように――「つねに」苦しみへの共感を感じています。なぜなら、すべての人に苦があるからです。誰にも苦があることはブッダが第一の聖諦で明確に説いています。苦のない人はいません。生――あるいは存在――そのものが苦だからです。しかし、生きていることは悲劇だという意味ではありません。苦とは、生起するすべての物事には軋轢やいらだちが伴い、もっとたくさん欲しいとか、このままでいたいとか、別の状態に変わりたいという願望がつねに付きまとうという意味です。すべての物事を等価なものとして眺め、完全に平静な心でいることは阿羅漢以外の人間にはできません。したがって、苦しみへの共感は、人々が悲劇に見舞われたときだけでなくつねに求められるものなのです。
 他者の苦しみへの共感は、エゴが減少しているときにのみ抱くことができます。エゴをめぐる問題は人間関係のさまざまな問題の根本にあります。誰もが同じくエゴの問題を抱えているので、他者を本当に思いやることができずにいます。本当に他者を思いやれる人は特殊な人物として目立ちます。これは悲しく、かつ馬鹿げた事態です。
 なぜなら、苦しみへの共感と慈しみの心がある人はそのおかげで幸福になれるのですから。しかし、ほとんどの人の心には苦しみへの共感と慈しみがありません。そのせいで、本当の幸福はどこを探してもほんのわずかしか見つかりません。とはいえ、この2つの感情はエゴを減少させますから喜びの源です。つねにエゴ中心の生き方をしている人には喜びがほとんどありません。エゴを満足させようとしても、エゴが満足することはないからです。
 私たちが抱える問題がなくなることは決してありません。つねに新たな問題が発生します。しかし、その問題を手放し、そのうえで、あらゆる存在に付きまとう苦、すなわちすべての生き物が免れえない苦に注意を向けるならば、苦が普遍的であることばかりでなく、自分自身が抱えている特定の苦には本当は何の意味もないということも理解できます。苦はすべての存在の一部をなしています。そのことが理解できると、自分自身とすべての生き物の苦に対する共感が生まれます。そして、すべての苦を終わらせようという決意はその達成に必要な力を得ることになります。

3.喜(喜びの共感)
 「四人の友」の三番目は「喜」、つまり「他人と喜びを共にすること」、あるいは「他人に共感して喜ぶこと」です。
 「喜」にとって遠くにいる敵はなにか。それは「嫉妬」です。これはわかりやすいでしょう。近くの敵は「見せかけ」や「偽善」、つまり言うことと思っていることが違うことです。たとえば、誰かに何か幸運なことがあってお祝いの言葉を言うべきときに、言葉だけで心がこもっていない場合がそれにあたります。もっと悪いのは、お祝いの言葉を述べながら心のなかで逆のことを考えることです。「なぜ私にはよいことが起きないのだろう。なぜいつも誰か他の人に起こるのだろうか」というように。
 他人と共に喜ぶことは、うつ状態への確かな対処法です。うつ状態に苦しむ人には、「他人と分かち合う喜び」や「他人に共感して喜ぶこと」が不足しています。自分自身の人生では、喜ばしい出来事や楽しい思いにつねに恵まれるというわけにはいきませんが、他人と喜びを分かち合えば、その中に何かうれしいことをきっと見出すことができます。
 他人の才能にも喜びを見出しましょう。たいていの人にとって、誰かが非常に有能であることを認めるのはとても難しいものです。そして、しぶしぶこう言うこともあります。「なるほど、彼にはそれができる、でも・・・」そしてすぐあとに悪口が続き、自分より何かをうまくできる他人と喜びを分かち合おうとはしません。他人が私たち自身よりうまくできることは無数にあります。絵を措くのがうまい人、ダンスがうまい人、翻訳がうまい人、お金儲けがうまい人、お金なしで生活するのがうまい人もいます。誰もが何らかの才能を持っています。ですから、喜びに満たされる機会は無数にあるはずです。

 他人と共に喜ぶことはまたよいカルマを作ります。私がかつて住んでいた小さな村のお寺には「特別な鐘」がありました。その村では誰かに何かよいことがあると必ずそこに行って鐘を鳴らしたものです。たとえば、収穫がもたらされたとき、娘が結婚したとき、誰かが病院から退院してきたとき、いい商売の取引がまとまったとき、屋根が新しく葺かれたときなど、何であれ喜びをもたらすこと起こったときです。
 鐘が鳴ると、皆、外に出てきて鐘を鳴らした人の方を見ます。自分の喜びを他人と分かち合えるようにしたことでよいカルマを作り、他の人々は他人の喜びを分かち合うことでよいカルマを作ったのです。
 ほとんどの村、町、都市には、このような目的に使う「特別な鐘」がありません。私たちは自らの鐘を鳴らさなくてはならないのです。これは私たちが覚えておくべき最も重要なことです。すなわち、あらゆる状況においてブッダの教えを思い起こし、その教えを実行するべきなのです。特別な機会や悲劇に見舞われたときだけ思い出すのではなく、いかなるときも心に留めておくのです。なぜなら、それこそ幸せと平和な生活のための処方だからです。
 ブッダは言いました。「私が教えてきたのはただ一つのこと、つまり『苦とその終滅にいたる道のこと』である」。ブッダは偉大な誓いを立て、その誓いを果たしました。それがすなわち、「苦の終滅」というブッダの教えです。エゴがすべての問題の根本にあることに思いをいたさず、エゴに対処しようとしないならば、私たちはブッダの教えを忘れているのです。ブッダの教えは、ときには役立つこともあるというものではありません。いかなるときも心と知性の中にあるべきものです。(つづく)
 アヤ・ケーマ尼『Behg Nobody,Goig Nowhere」を参考にまとめました。(編集部)