9月号より、2006年5月号から連載されました比丘ボーディによる法話、「縁起」を再掲載しています。今月はその第2回目です。
存在の車輪のスポーク
ブッダは縁起を単なる理論として説いたのではありません。ブッダが縁起を説いたのは、縁起がダンマの目的、つまり苦からの解放にとって中核となるからです。
さて、ブッダはこの輪廻(サンサーラ)の起点を見つけることは出来ないと言っています。どれほど時を遡っても、更に遡れる可能性が必ず出てきます。ただし、輪廻が時間的に明確な起点を持たないとはいっても、明確な因果構造はあるのです。
この因果構造は厳密にいくつかの条件の集まりによって支えられ、動き続けています。ブッダはこの条件を「十二の要素」(十二縁起)で示しました。そして、縁起についての教えの実践的な側面を作り上げているのはこれらの要素です。「十二の要素」とは、次のものです。
無知(無明)、意志的な形成作用(行)、意識(識)、精神と物質(名色)、六つの感覚器官(六処)、接触(触)、感受(受)、渇愛(愛)、執着(取)、生存(有)、誕生(生)、老死です。
これら十二の要素は存在の車輪のスポークで、そのすべてを私たち自身の中に見出すことが出来ます。私たちが輪廻の中を繰り返し流転し、様々な苦と出会うのは、これらの要素によるのです。私たちはこれらの要素のことを知らないので、束縛の中に捕われ続けます。この真理、縁起の真理を見出すことによって、繰り返される生と死のプロセスを止めることが可能になるのです。
このようにして、苦が生じる
ブッダはこう指摘しました。
無知(無明)に縁って意志的な形成作用(行)が生じる。
意志的な形成作用(行)に縁って意識(識)が生じる。
意識(識)に縁って精神と物質(名色)が生じる。
精神と物質(名色)に縁って六つの感覚器官(六処)が生じる。
六つの感覚器官(六処)に縁って接触(触)が生じる。
接触(触)に縁って感受(受)が生じる。
感受(受)に縁って渇愛(愛)が生じる。
掲愛(愛)に縁って執着(取)が生じる。
執着(取)に縁って生存(有)が生じる。
生存(有)に縁って誕生(生)が生じる。
誕生(生)に縁って老、死、悲しみ、悲嘆、痛み、嘆き、絶望が生じる。
すべての苦はこのようにして生じるのである。
縁起(パティッチヤ・サムッパーダ)(ニ)
私たちの現世は過去世の結果
この「十二の要素」の働きを分かりやすくするために、ブッダはこれらの要素が過去・現在・未来の三世に配分されると説明しています。十二の要素は、連続するどんな三世にも当てはめることが可能です。
仮に、「識」から「有」(三番目から十番目)までの要素を現世に当てはめたとすると、最初の二つの要素は過去
世、つまり直前の生に相当し、最後の二つの要素である生と老死は来世、すなわち未来の存在を表します。
この区分は十二の要素の働きを分かりやすく説明するための単なる便宜的な手段としてなされたものです。これを文字通り受け取って、「無明と行は過去にのみ起こり、現在には起こらない」と思ったり、「生と死は未来にしか起こらない」と思ったりしてはいけません。後で説明しますが、十二の要素は互いに連動しているので、十二の要素すべてを実際に各世で見出すことが出来ます。
では、私たちが現在生きている現世から説明を始めましょう。現世は第三の要素である「意識(識)」から始まります。私たちの人生は意識を基本的な要素とする経験の流れです。生命は受胎時に、意識発生の瞬間とともに始まり、意識は死の瞬間まで生きている間ずっと続きます。
すると、疑問が浮かびます。どのような条件によって私たちはこの現世に生まれたのでしょうか。意識はどこから生じるのでしょうか。私たちはどこから来たのでしょうか。私たちが生まれたのは単なる偶然なのでしょうか。私たちが生まれたのは創造主である神の意思によってなのでしょうか。こうしたことは縁起の教えによって明らかになります。
ブッダは、私たちの現世は過去世の結果であると説明しています。過去世における私たちの「無知(無明)」と「意志的な形成作用(行)」のために、私たちは生まれました。その後、現世においては、私たちの渇愛(愛)と執着(取)によって、また私たちの行為、即ちカルマによって、将来に新たな生を生じさせる力が動き始めます。そして、老いと死に続いて新たな誕生が起こります。このようにして、生成のプロセスが何回となく換り返されます。
悟りにおける驚くべき発見
この輪廻のプロセスをいつまでも繰り返す必要はありません。繰り返し続けるかどうかは、その根元にあるたった一つの原因が鍵を握っています。その原因とは無明です。ブッダの悟りにおける最も驚くべき発見は、その無明を根こそぎにできるということです。現象の本質を正しく認識し理解すること、すなわち現象を実際あるがままに捉える認識を、生み出すことができます。この智慧による認識を呼び起こすことによって、無明は根絶させることができます。
無明の消滅によって、意志的な形成作用(行)はもう生じません。そして意識(識)が消滅します。意識(識)の消滅とともに精神と物質(名色)は存在しなくなり、精神と物質(名色)の消滅によって、六つの感覚器官(六処)、接触(触)、感受(受)ももう存在しなくなります。感受(受)がなければ、もはや褐変(愛)と執着(取)は存在せず、業の蓄積もなく、誕生(生)もありません。誕生(生)がなくなるので、老と死ももう存在しません。つまり、苦の消滅ということです。