今月号より、2008年2月号から連載されましたアチャン・チャーによる1978年レインズでのリトリートの半ば、夕べの読経の後に行われた新参の修行僧を対象とした非公式の法話を掲載いたします。今月はその第1回目です。

 覚りの道への出発

1.自然な心を読む
 私たちの修行方法は物事を念入りに観察し、その本質を明瞭にすることにあります。私たちは粘り強く、絶えまなく実践します。しかし急いだり、慌てたりはしません。もちろんゆっくりし過ぎることもありません。徐々に私たちが進むべき道を手探りし、まとめあげていきます。しかしこの道をまとめていく作業には方向性があります。私たちの修行には目指すものがあります。
 私たちのほとんどは単なる欲から修行の道に入ります。私たちは何かを欲して修行を始めるのです。この段階では私たちの欲は正しくない欲です。別の言葉で言えば思い違いをしているのです。それは誤った見解が混じった欲です。
 もし欲がこのような誤った見解と混じることがなければ、それを私たちは智慧(paññā)を伴った欲と呼びます。それは思い違いではなく、正しい理解を伴う欲です。このような場合私たちほその人物が持つ波羅密(pāramī)ないし過去の蓄積によるものと言います。しかしこれはすべての人に当てはまるわけではありません。
 一部の人々は欲を持つことを嫌います。別のことばで言えば欲を持たないことを願うのです。なぜなら修行というものが何も欲しない、ことを目指していると考えているからです。しかしもし欲が無ければ修行することも出来ません。
 欲は私たち自身のためにあると見ることができます。ブッダとその弟子たちは煩悩を終焉させるために修行をしました。私たちは修行したいと思い、煩悩を終焉させたいと思わなければなりません。心の平穏を願い、混乱がない状態を願わなければなりません。しかしもしこの欲求が誤った理解を伴うなら、それは積もり積もって困難を増すだけとなるでしょう。
 誠実な言葉を使えば、私たちは何も知らないのです。あるいは私たちが知っている事は何の結果ももたらさないのです。なぜなら知っている事を正しく用いることが出来ないからです。
 ブッダを含め、誰もが皆このように欲から修行を始められました。心の平穏が欲しい、混乱や苦を避けたいという欲です。この二つの欲はまったく同じ価値を持ちます。理解が伴わなければ、混乱から逃れたいという欲求、苦しみたくないという欲求は共に煩悩となります。これらは愚かな欲求の形、智慧の無い欲です。
 私たちの修行においてはこの欲は官能的耽溺、あるいは自己抑制という形をとります。まさにこの軋轢のなかで私たちの師であるブッダはジレンマに陥られたのです。ブッダは数々の修行法を試みましたが結局これらの両極端に終わるだけだったのです。現代の私たちも事情はまったく同じです。私たちはいまだにこの二極化にさいなまされ、そのために正しい道からはずれてばかりです。
 しかし私たちはこのように修行を始めざるを得ないのです。私たちは煩悩にまみれた俗世間の人間として修行を始めます。智慧を欠いた欲求、正しい理解のない欲を持って。正しい理解を持ち合わせていなければ、この二種類の欲は私たちに良くない働きをします。それが欲することであろうが欲しないことであろうが渇愛(taṇhā)の域を出ないのです。
 私たちがこの二つの事を理解していなければ、これらが立ち上ってきた時にどう対処したら良いか分からず途方に暮れることになるでしょう。私たちは前に進むのも正しくない、後ろに引き下がるのもまた正しくないと感ずることになるでしょう。何をしても更なる欲求を見いだすだけとなるのです。これは智慧の欠如が原因であり、また渇愛が原因です。
 私たちはまさにここ、欲することと欲しないことによって法(Dhamma)を理解することができるのです。私たちが探し求めている法はまさにここにあるのです。しかし私たちにはそれがわかりません。むしろ欲求することを止める努力に固執するのです。私たちは物事をある型にはめたいと願い、それ以外を嫌うのです。あるいは物事が型にはまらないことを願いながら別の型にはめたいと願うのです。本当はどちらも同じことです。同じ二極化の一部なのです。
 私たちはブッダとその弟子たちすべてがこの種の欲求を持っていたことを実感できないかもしれません。しかしブッダは欲すること、欲しないことがどのようをものか理解したのです。ブッダは欲することも欲しないことも単なる心の活動で、瞬時に現われては消えていくものであることを理解したのです。この種の欲は絶え間なく続きます。智慧があればそれらを自分と同一視することはあはせん。欲すること、欲しないこと、いずれもただあるがままにみるだけです。現実にはそれは単なる自然のままの心の働きです。注意深く観察すれば自然なこころとはこのようなものであると明瞭に見てとれるのです。(続く)