(承前)
2.日々の経験からの智慧
 そのようなわけで深く考えることの実践が私たちを理解へと導くのはここなのです。
 一つ喩えをあげましょう。大きな魚のかかった網をたぐりよせる漁師の喩えです。漁師は網を引き寄せながらどのように感ずると思いますか。もし魚が逃げるのではないかと不安を感じたとしたら彼は慌てて網と奮闘し始め、わしづかみにしたり、強く引っ張ったりするでしょう。気がつくとその大きな魚は逃げてしまっています。彼は性急にやり過ぎたのです。
 昔であればこんな風に話すことでしょう。獲物はゆっくりと扱い、収穫するときは注意深く獲物を逃さないようにしなければならないと言われているではないかと。これは私たちの修行にもあてはまります。一歩づつ手探りで進み、修行の道を失わないように注意深く、積み重ねていきます。時として修行をしたくないと感じることもあるでしょう。見たくない、知りたくないと思うかもしれません。でも修行をし続けます。手探りで進み続けます。修行とはこういうものです。したいと思っている時にも進めるし、したく釦、と思っている時にも同じように進めます。ただ修行し続けるのです。
 修行に熱が入れば、「信」の力が私たちの行為に活力を与えてくれるでしょう。しかしこの段階では私たちにはまだ智慧がありません。たとえ私たちが活力に満ちていたとしても修行から得るものは少ないでしょう。長い間修行を続けても正しい道に向かっていないのではないかと感じるかもしれません。平穏や静寂を見いだすことが出来ない、あるいは修行を行うための準備が充分でないと感じるかも知れません。あるいはまた正しい道に達するのはもはや不可能と感じるかも知れません。それで私たちは締めてしまうのです!
 この時点では私たちはとりわけ注意深くあらねばなりません。根気と忍耐とを最大限に発揮しなければなりません。これはまさに大きな魚を引き寄せるようなものです。手探りで目的とするものをゆっくりと手に入れます。獲物を注意深く引き寄せます。獲物との格闘もさほど困難なものではないはずです。そして休むことなく獲物を引き寄せるのです。
 しばらくすれば魚は疲れ果て、抗うのを止めて容易に捕らえることが出来るようになります。通常、物事はいつもこんな調子であり、私たちは修行により、ゆっくりと目的を遂げるのです。
 私たちが瞑想するときはこのようにします。もしブッダの教えの論理的な側面に関して特別な知識や学識を持ち合わせていない場合は日々の生活に照らし合わせて熟考するようにします。既にも持ち合わせている知識、日々の経験から得た知識を使うのです。このような知識は心に自然に備わっています。実際、私たちが心の真の姿を観察してもしなくてもそれは既に今ここに存在しているのです。私たちが知っていようがいまいが心は心なのです。
 私たちはブッダがこの世に降誕してもしなくてもすべての事物があるがままに存在していると言いますがそれはこのためです。すべての物事はその本性に従ってすでに存在しています。このような生来の状態は変わることがないし、どこかへ行ってしまうこともありません。ただそのようにあるだけです。これが真理の法(sacca dhamma)と呼ぼれるものです。しかしこの真理の法についての理解がなければ私たちはにそれを認識することはできません。
 そのようなわけで私たちはこのように熟考する修行を行います。もし経典に長けていないならば心そのものを学習と読解の材料とします。休むことなく深い考察(文字どおりには自分自身との対話)を続ければ徐々に心の性質についての理解が生じるでしょう。何ごとも無理に行う必要はありません。(続く)