1月号より、2008年2月号から連載されましたアチャン・チャーによる1978年レインズでのリトリートの半ば、夕べの読経の後に行われた新参の修行僧を対象とした非公式の法話を掲載しています。今月はその第3回目です。
3.たゆまぬ努力
心の働きを止めることが出来るようになるまで、そして静寂に達するまでは心はただ前と同じことをくり返すだけです。だから師(ブッダ)はおっしゃったのです。
「とにかく続けなさい。修行し続けなさい」(以上3行は2018年1月号に掲載しました)
私たちはこのように考えるかもしれません。
「私たちがまだ正しく理解していないとしたらいったいどうやって修行が出来るのでしょうか」
正しく修行が出来るまでは智慧は生まれません。だから修行を続けるのです。私たちが留まること無く修行を続ければ自分がしている行為について考え始めるでしょう。修行について深く考え始めるでしょう。
何ごともすぐには起こりません。だから始めは修行しても結果が出ないのです。この点についてはちょうど良い喩えがあります。私は二本の木の棒を擦りあわせて火を点けようとしている男の喩えをよく使います。その男は独り言を言います。
「こうすれば火が点くって言っていたな」
そして熱心にこすり始めます。休むこと無くこすり続けますが辛抱が続きません。男は火を点けたいと望みます。望み続けます。でも火は点きません。がっかりして手を止めしばらく休みます。そしてまたこすり始めますが、火はなかなか点きません。それでまた休みます。そのうち熟は冷めてしまいまいます。男は十分こすり続けなかったのです。何度もこすりますがそのうち疲れてこすることをすっかり止めてしまいます。疲れただけで無く、落胆がいっそう強くなり、すっかり締めてしまいます。
「火なんか点かないぞ!」
実際はちゃんとやることをやってはいたのですが、火を点けるに十分な熱が無かったのです。いつでも火をつけることは出来たのですが火が点くまでこすり続けなかったのです。
修行においてもこの種の経験は瞑想者を落胆させます。そして瞑想者は修行法を次から次へと変えていきます。私たちも修行の中で同じような経験をします。誰でも同じです。なぜでしょう。なぜなら私たちは未だに煩悩に基づいているからです。ブッダにも煩悩はありましたがこの点に関してはたくさんの智慧を持ち合わせておられました。ブッダも阿羅漢方も俗世間の人間であったうちは私たちと同じだったのです。
私たちが俗人である限り正しく考えることは出来ません。それで欲求があってもそれに気付かず、欲求がなくてもそれにも気付きません。時に私たちは心かき乱され、また別の時には充足を感じます。欲求のない時は充足感を得ますが、混乱も同時に生まれます。欲求のある時にはまた別の種類の充足感と混乱が生じます。このようにして混ざりあってしまうのです。
4.己を知り、他者を知る
ブッダは私たちの体を対象にして瞑想することを教えられました。例えば頭髪、体毛、歯、皮膚など……休全体を対象にします。どうぞ見て下きい。今ここで探究するようにと教えられています。私たち自身の中に、これらの体の構成要素をあるがままに明瞭に見て取ることができなければ自分以外の人々について理解することも無いでしょう。
しかしもし自分の体の性質を理解し、明瞭に見ることができれば、他の人々に対する疑いや迷いは消えるでしょう。なぜなら体と心(名と色)は誰でも共通だからです。世界中の人のすべての体を調べる必要はありません。御存じの通り他の人々は私たちと変わるところは無く、私たちも他の人々と変わるところはありません。このように理解すれば私たちが背負う重荷はずっと軽くなります。このような理解が無ければ私たちが何をしても重荷を増やす結果となります。自分以外の人々の事を知るために世界中の人間の所に赴いて調べることも出来なくはないでしょう。でもそれは極めて困難です。すぐにあきらめることになるでしょう。
私たちの戒律(Vinaya)もこれと同じです。Vinaya(修行僧の守るペき規範)を見ると私たちはとても難しいと感じるのです。私たちは全ての戒律を守り、これを学び、自分の修行が戒律に適っているかどうか吟味しなければなりません。戒律のことを考えると「ああ、これは不可能だ」と思うのです。
無数の戒律条項の意味を読み取りますが、戒律についての私たちの気持ちに単純に従えば、すべての戒律を守るのは私たちの能力を超えていると思っても仕方がないでしょう。同じように戒律に取り組む者は誰でも同じ気持ちを抱きます。とにかく戒律条項が多いのです。
経典によれば私たちはすべての戒律条項それぞれに照らして自らを吟味し、またそれらを厳格に守らなけれぼならないとされています。私たちはすべての戒律を知って完璧に注意を払わなければならないのです。これは他者を理解するためには全ての人間の所に赴いて徹底的に調べなければならないと言うのとまったく同じです。これは大変厳しい考えです。そして伝えられたことを文字通りに受けとるからこのようなことになるのです。もし教本に従うならば私たちの進むべき道はこれ以外にありません。指導者の一部はこのように教えます。経典に書かれていることを厳格に順守しなさいと。しかしこのようなやり方はうまくいきません。
実のところ、このような理論を学んでしまうと私たちの修行はまったく進まなくなるでしょう。実際私たちの「信」は消え去り、正しい道への信心は壊れてしまうでしょう。なぜなら私たちはまだ正しく理解してはいないからです。智慧があれば全世界の人々はただこの一人の人間に集約すると理解するでしょう。
すべての人々はまさにこの生命と同一なのです。だから私たちは自らの体と心について学び、熟考します。私たち自身の体と心の性質を理解することですべての人々の体と心を理解することになります。こうすることで修行の重圧は軽くなるのです。
ブッダは自分自身を教え導くようにと説かれました。自分以外の誰も私たちを教え導くことはできません。私たち自身の存在の性質を学び理解することで、すべての存在の性質を理解することになります。実際、存在するものはすべて同じです。私達はみな同じ“造り”で、人類という同じ集団から出てきています。違うのはただ色合いだけ、ただそれだけです。先ほどお許した“Bort-hai”と“Tum-jai”(タイの薬)とよく似ています。どちらも鎮痛剤で同じ働きをします。でも一つは“Bort-hai”と呼ばれ、もう一は“Tum-jai”と呼ぼれます。実際は何の違いもありません。
あなた方がものの見方を一つにまとめあげるにつれて、物事を理解するのがより一層容易になってくるでしょう。私たちはこれを“手探り”と呼びます。私たちはこのように修行を始めます。いずれこのような物の見方に熟達するようになるでしょう。修行を続ければやがて理解に到達するでしょう。そしてこの理解が生じた時に真実をはっきりと見て取ることになるのです。