1月号より、2008年2月号から連載されましたアチャン・チャーによる1978年レインズでのリトリートの半ば、夕べの読経の後に行われた新参の修行僧を対象とした非公式の法話(「悟りの道への出発」)を掲載しています。今月はその第4回目です。
5.理論と実践
そのような訳で私達はこの実践を続けます。実践のセンスを身に着けるまで続けます。それぞれの持つ特別な傾向や能力によりますが、やがて新たな理解が生じます。これを法の究明(Dhamma-Vicaya:択法)と呼びます。このようにして7つの悟りの要素(七覚支)が心に生まれるのです。残りの6つは気づき(念)、努力(精進)、歓喜(喜)、平安(軽安)、集中(定:サマーディー)、平静(捨)です。
七つの悟りの要素について学べば、それについて書かれた本の内容を知ることはできます。しかし真の悟りの要素を見ることはできません。本当の悟りの要素は心の内に生じます。このようにしてブッダはあらゆるすべての教えを直接私達に説くようになりました。
正覚者はすべて苦しみから脱する方法を教え示しました。そして正覚者の教えの記録を理論的な教えと呼びます。この理論はもともと実践から得られたものです。しかしそれは単なる本による学習、ことばの羅列と化してしまっています。
真の悟りの要素は消え去ってしまっています。それは私達自身の中に、すなわち心の中に悟りの要素をみようとしないことが原因です。悟りの要素が生じるとすればそれは実践から生まれます。悟りの要素が実践から生じるなら、それは法の悟りに導く要素といえます。そしで悟りの要素が生じることで実践が正しいと知ります。実践方法が間遠っていれば、このような要素が現れることはありません。
正しい方法で実践するなら法を見て取ることが出来ます。それで実践をし続けるのです。一歩ずつ道を手探りしながら絶え間なく探究を続けます。探し求めるものがここを置いて他に見つかると考えてはなりません。
先輩の修行者の一人はここに来る前に学習寺で長いことパーリ語を学んでいました。学習の成果があまり芳しくなかったため彼は次のように考えました。
「瞑想を実践する修行僧はただ坐るだけですべてを見、理解することが出来ている。私もそのようにしてみよう」
彼はこの地、ワット・パーポンにやって来て、坐って瞑想をすればパーリ語の経典を翻訳できるようになるだろうと考えました。彼は修行実践についてこのように理解していました。まったく過って理解していたのです。ただ坐ってすべての物事を明らかにするのが簡単なやり方だと考えていました。
法の理解について話す時は学習僧も修行僧も同じ言葉を使います。しかし実際は理論を学ぶことで得る理解と、法の実践から得られる理解はまったく同じというわけではありません。この二つは同じように見えるかもしれませんが一方はより高尚で、深遠なものです。実践から生まれる理解は放棄、諦めへ繋がっていきます。完全な放棄が生じるまで、耐えます。熟慮を続けるのです。
もし欲ないし怒り、そして嫌悪が心に生じるなら、無関心ではいられません。単にこれらから逃れるのではなく、むしろこれらを取り上げて、よく調べ、どこからどのように生じたかを見極めます。このような傾向が既に心に備わっているなら、深く考察しこれらの感情がいかにして不善な作用を及ぼすかを観察します。これらの感情をはっきりと観察し、それらを実体と信じて追い求めることにより、自らが苦難を作り出していることを理解します。このような理解は自身の純粋な心以外のどこにも見い出すことはできません。
このようなわけで理論を学ぶ人々と瞑想をする人々のお互いが相手を誤解します。通常学習を重んじる人々はこんなふうに言います。
「瞑想実践しかしない修行僧はただ自分の意見に従っているだけだ。彼らの教えには土台が無い」と。
実際は「学習と実践」という二つの方法はある意味でまったく同じものです。これらを手の平と甲のようなものであると考えれば、理解の助けとなるでしょう。手の平を差し出せば手の甲は消えてしまったように見えるかも知れません。実際、手の甲はどこかへ消え去ったのではなく、下に隠れているだけです。手の甲が見えないといってもそれが完全に消え去ったわけではなく、下に隠れています。
差し出した手をひっくり返すと、今度は手の平が見えなくなります。その場含も手の平はどこかに去ったのではなく、ただ下に隠れただけです。
実践について考える時はいつもこのことを忘れないようにしてください。実践が「見えなくなった」と思うと、結果が出ることを期待して学習を始めます。しかし法についてたくさん学んだかどうかは重要なことではなく、それだけで理解を得ることは決して無いでしょう。なぜなら真理に従うということを知らないからです。法の真の性質を理解すれば自ずとしがみ付いている物を手放すようになります。これが放棄です。執着(upādāna:取)を取り除くことです。二度と対象にしがみつかないことです。あるいはまだしがみついているとしてもそれがどんどん少なくなります。学習と実践という二つの方法の違いはこのようなものです。
学習について語る時、次のように理解することができます。目は学習の対象である、耳は学習の対象である――すべては学習の対象であると。形態がこのようなもの、あのようなものと知ることはできるでしょう。しかし形態に執着し、それから逃れる術を知りません。私たちは音を識別することができます。しかし今度は識別した音に執着するのです。形態、音、臭い、味、身体の感触、心に起こる印象はすべて生命を捕獲する罠です。
これらの事柄を究明することが法を実践する方法です。なんらかの感覚が生じたら理解をそれにむけて本質を見極めます。理論について周知していれば、すぐそちらに注意を向けて、これこれの物がこのように生じてあのようになった、などと即座に分かります。しかし、このように理論を学んだことがない場合は、自然の状態にある心とともに実践します。この自然な心が私達の法です。
智慧があれば自分の自然な心を検証し、学びの主題とすることができます。まったくそれは同じもので、自然の心は理論なのです。ブッダはどのようなものであれ思考や感覚が生じたら、それを究明するようにと説かれました。自然な心の真実相を理論として使います。この真実を拠り所とするのです。