2008年2月号から連載されましたアチャン・チャーによる1978年レインズでのリトリートの半ば、夕べの読経の後に行われた新参の修行僧を対象とした非公式の法話(悟りの道への出発)を掲載しています。今月はその第5回目です。

6.洞察瞑想(ヴィパッサナー:vipassanā)
 皆さんに信があるなら理論を学んだかどうかはそれほど重要ではありません。信心により瞑想実践が進展し、精進と忍耐を持ち続けることができるならば理論を学ぶことは大切なことではありません。
 瞑想実践の礎となるのは気づきです。坐っていても、立っていても、歩いていても、寝ていても、いつも姿勢に気づくようにします。そして気づきがあるところには明確な理解が生まれます。気づきと明確な理解は同時に生じます。瞬時に生じるため両者を区別することはできません。しかし気づきがあればいつも明確な理解が現れます。

 心が揺るがず、安定していれば気づきはすぐさま、容易に生じます。同時に智慧も現れます。しかし智慧が不十分であったり、適当な時に現れないこともあります。気づきと明確な理解が生じたとしてもそれだけでは状況をコントロールするのには十分ではありません。一般的には、心の土台に気づきと明確な理解があれば、そこに智慧が現れて補います。

 しかし智慧は洞察瞑想を通して、常に育てていかなくてはなりません。心に浮かんだものは何であれ気づきと明確な理解の対象にできるのです。ただし物事は無常(anicca)、苦(dukha)、無我(anatta)に基づいて観察しなければなりません。基本は無常です。苦とは満たされることがない性質のことです。そして無我とは物事に実体がないことを意味します。

 感覚が生じたら、ただ感覚があるとみるだけにします。感覚を自分自身と同一視したり、実体があるものとみなしたりしないようにします。そして生じた感覚が自ら消え去るのをただ観察します。ただそれだけです。心が汚れた者、智慧の無い者はこの機会を逃してしまいます。感覚という現象を心の向上のために使うことができません。
 智慧があれば、気づきと明確な理解も同時に生じています。

 しかし初期のこの段階においては、智慧はまだ十分に洗練されていない可能性があります。その場合は、気づきと明確な理解があっても、すべての対象を捉えることができないのです。しかし、智慧が現れて助けの手を差し伸べます。智慧により気づきの質がどの程度か、生じた感覚がどのようなものかを見極めることができます。あるいはおおざっぱな見方をすれば、どのような気づき、どのような感覚もすべてが法(Dhamma)であるといえます。

 ブッダは洞察瞑想を礎として修行されました。ブッダは気づきも明確な理解も不確実で不安定であると見ました。不安定なものは何であれ、それが安定したものであって欲しいと願う私たちに苦をもたらします。私たちは物事が思い通りであってほしいと願いますが、現実にはそうならないために苦しまなければならなくなります。これが清らかでない心、智慧を欠く心がもたらす影響です。

 修行実践する時も、私たちはそれが簡単であってほしいと願う傾向があります。好ましい方法であってほしいと思うのです。このような態度を理解するのにわざわざ遠くまで出向く必要はありません。ただ自分の身体を見れば良いのです。
 身体が私たちの望む通りになったことがあるでしょうか。ある時は身体がこのようになって欲しいと願い、また別の時はあのようになってほしいと願います。身体が願い通りになったことが一度でもあるでしょうか。この点では身体と心はまったく同じ性質を持っています。身体や心の性質はただ然るべき姿のままに存在しているだけです。

 修行実践ではこの点が見のがされやすいのです。通常、感じたものがなんであれ、気に入らなければそれを捨て去ります。楽しくないものはなんであれ捨ててしまいます。好き嫌いをすることが正しいかどうか考えなくなります。好ましくないことは間違いで、好ましいことは正しいと単純に思い込みます。
 ここから貪りが生じます。眼、耳、鼻、舌、身、意を通して刺激を受け取ると、そこに好き嫌いの感情が生まれます。これにより心は執着で満たされているとわかります。
 それ故ブッダは無常の教えを説かれました。ブッダは物事を注意深く観察する方法を教えられました。永遠ではないものにしがみつこうとすると、苦しみを味わうことになります。

 好き嫌いに合わせて物事を求めなければならない理由はどこにもありません。物事を自分の感情に合わせようとしてもそれは不可能です。私たちにはそんな権限も力もありません。物事がこうあって欲しいといくら願っても、物事はすべてあるがままになるだけです。自分の好きなように望むことは苦しみから離れる道ではありません。
 汚れた心と、汚れのない心の理解の仕方は違うということがここでわかります。例えば智慧のある心がある感覚を受け取ると、心はその感覚についてしがみついたり自分と同一視したりすべきものではないと見なします。智慧はこのように示されるものです。智慧がなければ単に自分の無知(痴)に従うだけとなります。無常、苦、無我を見ないという無知(痴)です。好きなものを良いもの、正しいものとみなし、嫌いなものを良くないものとみなします。このようなやり方では法(Dhamma)に触れることはできません。智慧は現れません。
 しかし、このような有り様を見据えれば智慧が生じます。

 ブッダは心の内で洞察瞑想の実践を確固たるものとしました。そして洞察瞑想によりあらゆる精神的印象を探究しました。心にどのようなものが生じてもブッダは次のように探究されたのです。心に現れたものを好ましいと思ってもそれは確実なものではない、対象を好ましいと思ってもそれは絶えず生滅し、心の作用に従わないから苦しみであると。
 対象は実在するものでも、自分自身でもなく、自分のものでもありません。ブッダは物事をただあるがままに見るようにと教えられました。修行においてはこの原則を拠り所とします。

 次に、自分の感情を望み通りに生じさせることは出来ないことを理解します。良い気分も悪い気分も現れます。役に立つものもあれば、役に立たないものもあります。正しい理解がなければ、正しい判断を下すことはできません。むしろ貪りを追い求め、欲に従って道をそれてしまうことになるでしょう。
 時には幸せと感じ、またある時には悲しいと感じますがこれがありのままの姿なのです。喜びを感じることもあれば失望する時もあります。好きなものを良いもの、嫌いなものを悪いものと思い込みます。このようにして私たちは法(Dhamma)からはるか彼方へと達ざかってしまうのです。このような状況になると、法(Dhamma)を認識することができなくなり混乱します。心は汚れそのものとなり、欲が増すことになります。

 心について語る時はこのようにします。正しい理解を求めて自分自身から遠く離れたところへ赴く必要はありません。心の状態が永遠に続くわけではないとただ観察するだけです。心の状態は満足できるものではなく、永遠に変わらない自己ではないとみます。修行をこのように進めていくならば、それがヴィパッサナーあるいは洞察瞑想の実践となります。それは心の内容を理解することであり、そうやって私たちは智慧を開発するのです。(続く)