1.「布施」
私たちが培っていくことが必要な精神的資質として、まず「布施」が挙げられます。この最初の資質が身につかないと、悟りへの通が開かれることもまたありえません。私たちはどこかでこの道に踏み出さなければなりません。布施はそのための第一歩であり、最初の資質なのです。そしてこの最初の資質こそが、私たちの始まりとなるのです。
ブッダは三つの布施について語りました。乞食の布施、友達の布施、王子の布施、です。
「乞食の布施」とは、家の中に散らかっているものを片付けたいときそうするように、いらないものを与えることです。何も与えないよりはましですが、いらないから与えるというのは、あまり寛容とはいえません。形はどうあれ、欲や執着をなくしていないからです。
「友達の布施」とは、私たちが持っているものを分かち合うことです。私たちが出会う多くの人々と共有します。いくらかを手元に置き、いくらかを与えて等しく分かち合います。
「王子の布施」とは、私たちが持っている以上に与えることです。これは非常に稀なことです。たいていの人々はこうはいきません。
布施は、正しい動機を伴うことが必要です。もしあなたが利益や評価、感謝など何かしらの見返りを求めて布施をするなら、それはうまく行きません。「得る」ことを期待して「与える」のは、矛盾というものです。得るために与えるのではなく、与えるために与えるのです。この意味を深く調べ、洞察したとき、はっきりと理解できるようになるでしょう。もし与えるために与えるなら、たとえば、幸福や満足、心の平安を得られることは明らかなのです。必要以上のものを所有していると感じて布施をする人もいるでしょう。あるいは、自分の富と繁栄を他者と共有する必要があると感じて布施をするかも知れません。慈悲の気持ちで布施をする人もいるでしょう。ブッダは慈悲の心から布施をされたのでした。
布施は、物を与えることのみにあてはまるわけではありません。時間や思い遣り、気配り、世話といった布施が出来ますし、あなたが持っている技術や能力も分かち合うことができます。それらを、見返りを期待せずに提供するなら慈しみの布施です。ブッダは慈悲の思いからダンマを布施したのでした。
このような布施によって得られるものがあります。あなたが慈悲の心で与えれば与えるほど、必然的により多くの慈悲を得られるのです。これは自明で道理に叶ったことですが、この点まで思いをいたす人はなかなかいません。他者からの好意が欲しくて布施をする人もいるでしょう。しかし、心からの慈愛で布施をすればするほど、その人はより多くの慈愛を得られるに違いないのです。
どんな類の布施もエゴを減らしていきます。だからこそ、身に付け守っていかなければならない十の波羅蜜の最初に挙げられるのです。
ブッダがまだ悟りを目指していた菩薩だった頃、これら波羅蜜の資質こそ、完成をめざしていたものなのです。これについては、ブッダの前世に関しての「ジャータカ」という話の中に多くの逸話が残っています。
菩薩の布施は、自分の生命を提供することにさえ及びます。自らの命を他者の為に差L出すのは、最も尊い布施です。普通の人が同じことをするのはほとんど不可能でしょう。布施にはさまざまな程度があり、少しでも布施をすれば、エゴが少し減るのです。もし正しい動機を伴うなら、多くの布施はエゴをより多く減らしていくのです。
エゴをなくしていくことは、清浄道の本義であり、それは最終的に無我という実体験へと導きます。自己中心性について何らかの取り組みを始めていない限りは、無我を体験できることを期待したり願望したり、あるいは想像することすらできないでしょう。どうすればそれが可能でしょうか。布施はそこへ向けて最上の出発点なのです。(続く)