本年1月号より、2008年2月号から連載されましたアチャン・チャーによる1978年レインズでのリトリートの半ば、夕べの読経の後に行われた新参の修行僧を対象とした非公式の法話を掲載しています。今月はその第6回目です。

 覚りの道への出発

7.サマタ瞑想
 サマタ瞑想においては、例えば息の出入りを心を制御するための土台ないし方法として気づきの実践を確立します。息の流れに心を付き従わせることで心は安定し、落ち着き、静まります。心を落ち着かせるこの修行はサマタ瞑想と呼ばれます。心は多くの障害に満ちているのでこのような修行を数多く行う必要があります。心はとても混乱しているのです。計り知れない長い年月、多くの生涯に渡り、心は混乱した状態を続けてきたのです。坐って瞑想すれば、実に多くの事柄が平穏と冷静さかき乱し、混乱へと導くことがわかります。
 そのため、ブッダは私たちそれぞれの傾向に適した瞑想対象と、性格に見合った修行方法を探さなければならないと教えられました。たとえば身体の部分――頭髪、体毛、爪、歯、皮膚――を対象とし、くり返し瞑想することで落ち着くことが出来ます。この修行により心はとても安らかなものとなります。
 この五つの身体部分について瞑想することで落ち着くことができたなら、それは私たちの傾向に適った対象であったということになります。このようにして、適切であると感じたものは何であれ修行の対象と考えて、煩悩から遠ざかるための方法として修行に用いることができます。

 死を思い浮かべるやり方もあります。いまだ食欲、嫌悪、妄想がひどく、これらを押さえるのが困難な修行者には、自分の死を瞑想対象とすることが役立ちます。富めるものも貧しいものもすべての人間は死ななければならないとわかるようになります。良い人間も悪い人間も死ぬのだとわかるようになるのです。人間は誰でも必ず死にます。この修行が進むと、感情に動かされることがなくなります。修行すればするほど坐禅で容易に平静さを得ることができるようになります。なぜならそれがこの瞑想者にふさわしい修行であるからです。もしサマタ瞑想実践が修行者の特性に合っていなければ冷静さは現れないでしょう。瞑想対象が修行者に相応しいものであれば冷静さが難なく、恒常的に現れるようになるでしょう。そして瞑想対象を頻繁に思い起こすことになるでしょう。
 これに関しては日常生活の中にも例をみることができます。在家の人々が様々な食べ物を持ち寄り比丘にお布施します。比丘は布施された食べ物すべてを味見します。それぞれの食べ物を試食してみると、自分の身体に最も適している食べ物がわかります。これはほんの1例です。自分の味覚に合っていると思った食べ物を口にします。最も自分に相応しい食べ物を見つけることで他の料理に煩わされることはなくなります。

 息の出入りに注意を集中させる修行は、すべての人に適した瞑想の一例といえます。色々な修行を試しても、あまり良い気分になれないかもしれません。ところが坐って呼吸に集中するや否や気分が良くなるのがわかります。息の出入りを明瞭にみてとることが出来ます。遠くを見る必要はありません。呼吸のような身近なものを用いればよく、その方が私たちにとっては都合が良いでしょう。ただ息を見つめて下さい。息が出て、入ります。出て、入って。息をこのように観察するのです。長時間、呼吸の出入りを観察し続けると、次第に心が落ち着いてきます。呼吸以外の動きが起こってもそれがどこか遠くにあるように感じます。人が離れて暮らすともはや互いにあまり親近感を感じなくなるようなものです。以前のような親密な交流を持つことはなくなり、あるいはまったく交流がなくなるかもしれません。

 呼吸に気づく瞑想実践を好ましいものと思えるようになれば、それはより容易になります。この実践を続けて、経験を積めば呼吸の性質を知ることに熟達するようになります。息が長い時にそれがどのようなものであるか、そして息が短い時もそれがどのようなものであるかがわかります。
 一つの見方として呼吸を食物とみなすことも出来ます。坐っていても、歩いていても、私たちは呼吸をします。寝ていても、起きていても呼吸します。呼吸しなければ死んでしまいます。呼吸の事を考えることで、食べ物がなければ生けていけないことにも考えがおよびます。10分間、1時間、あるいは1日食事をとらなかったとしてもどうということはありません。食べ物についてはこんなものなのです。しかしほんの短い時間でも息をしなければ死んでしまいます。5分、あるいは10分息をしなければ死んでしまうでしょう。どうぞ試してみて下さい。
 呼吸についての気づきを実践する者はこのように理解しなくてはなりません。この修行実践から生じる知識は実際すばらしいものです。瞑想しなければ呼吸を食物のように見ることはありませんが、実際には、始終空気を「食べて」いるのです。いつでも吸って吐いて、吸って吐いて。このように瞑想すればするほど修行から得る恩恵は増し、呼吸がより微細になることがわかるでしょう。呼吸が止まることすらあるかもしれません。まったく呼吸していないように見えるのです。実際は皮膚の穴を通して呼吸が行われています。これは「微細な呼吸」と呼ばれます。心が完全に静まると、通常の呼吸はこのように止まってしまいます。でも恐れる必要はありません。呼吸が止まってしまったら、ただそれを知れば良いのです。呼吸が止まったことを知る、ただそれだけです。それが正しい実践の方法です。

 ここではサマタ瞑想実践の方法、落ち着きを育てる修行についてお話しています。用いている瞑想対象が適切なものであれば、上で述べたような経験をすることになります。これは初歩ですが、この瞑想実践には私たちをこの先ずっと導いてくれるものが十分備わっています。少なくとも明確に観察し、強い信念のもとに修行を続けるところまで私たちを導いてくれます。このように瞑想し続ければエネルギーが湧いてくるでしょう。これは甕の水に良く似ています。永を継ぎ足していつも甕に水が一杯になるようにしておきます。いつも甕を水で満たすようにし続けますが、それにより水中に住む昆虫が死なずにすむのです。私たちが努力し、毎日実践するのもこれとまったく同じです。すべてが修行実践へと立ち戻るのです。このことでとても気分が良くなり、心の平穏を感じます。
 この平穏は一点に向かって研ぎすまされた心の集中状態から生まれます。しかしこの一点に向かった心の状態は大きな問題ともなりえます。なぜなら他の心の状態に煩わされるのを嫌うからです。他の心の状態は確実に現れますが、実は良く考えればそれ自体が一点に向かった心の状態になり得ます。それは私たちが世間で様々な男女を見る時のようなものです。実際、男は皆父親と同じ男性であり、女は皆母親と同じ女性です。しかし私たちは同じだとは思いません。両親をより大事な存在だと感じます。両親は私たちにとってより大事なものであるとの思いを抱きます。
 心を一点に集中するときもこのようでなければなりません。両親に対して持つのと同じ態度を集中の対象に向けるべきです。しかし両親以外の一般の男女に対するのと同じように、生じてくる他のすべての心の動きを認織し、観察することをやめないようにします。ただし単にそれらの存在を認めるだけで、両親に抱くような価値を置くことはしません。(続く)