5.精進
次は精進です。それは、自動車を動かすための燃料に例えられます。人間の場合は、その燃料を自ら作り出さなくてはなりません。それはまた、悟りに至る七覚支(注)の一つでもあり、とても重要なものです。
精進はいろいろな方向へ向けることができます。億万長者になるにも、建物を建てるにも、他の人より有利な立場に立つためにも、大いに精進しなければなりません。すべて私たちのすることには精進が必要です。
精進はまた、私たちに落ち着きをなくさせます。それは、この行動からあの行動へ、この考えからあの考えへ、と私たちを駆り立て続けます。何かしら満たされるものを見出すために、世界のこちら側からあちら側へと私たちを運んで行きます。精進は正しく使われなければ、非生産的になってしまう資質です。それ自体では善なるものではありません。精進は燃料にすぎませんから、それにふさわしい種類の乗り物を用意することが肝腎です。
ブッダは五つの精神的能力(五力)について語り、それを、先頭を一頭が引き、その後に二組の二頭が続く馬車に例えました。
先頭の馬は「気づき」であり、望むだけ早く駆けることができます。進むにあたってバランスを取るべき相手はいません。「気づき」は先導であり、先頭であり、先駆けです。それなくして馬車はスタートすることができません。
しかし、後の二組は互いにバランスを取らなくてはなりません。二組のうち、初めのものは「精進(エネルギー)」であり、「定(集中力)」とバランスを取らなくてはなりません。
定(集中力)は心に落ち着きをもたらします。もし、定だけで精進がなければ、眠気を催します。無感動で無気力になります。「気づき」なしの定だけにもなり得ます。なぜならば、目覚め、気付くのに十分な精進がないからです。この種の定は役に立ちません。定は精進とバランスを取る必要があります。定(集中力)なしの精進もまた役に立ちません。なぜなら、それは心を落ち着きなくさせ、いつも何かをしなければならない様にするからです。
精進は向かうべき方向を持つ必要があります。車に燃料を入れ、出発したとしても、どこへ行くかが分からなければ何の役にも立ちません。燃料の浪費ではないでしょうか。この地球上で次から次へとエネルギー危機が起こっているのですから、どんな燃料であれ、浪費するのは許されないことではないでしょうか。私たちは、自分の乗ったこの乗り物がどこへ進んでいるのか、はっきり知っている必要があります。それは、ただ一つの方向に向かうべきです。すなわち、より高い、段階の進んだ意識を得るための、成長へ向かう方向です。
心が成長すると、視野が広がります。私たちが十分に成長すると、鳥瞰的な視野を得ることができます。そのような、心的、精神的成長が達成され、すべてを上から見下ろせるようになるとき、下で起こっていることは、もはや私たちに影響を与えません。宇宙空間に浮かぶ、この宇宙船「地球号」で、洪水や早魅、さらには地震があろうとも、私たちの意識は影響されることがありません。意識はそれらを、「鳥の目」で見ています。そのような視野を持つと、個々の出来事ではなく、全体像が目に入ります。もし私たちが空高く上がって行き、十分な高さまで来たなら、全地球を眼下に見ることもできます。とはいえ、物理的には私たちは、ここ、地上にいますので、見ることができるのは、今いる場所だけです。
同様のことは、内なる視野についても言えます。私たちの狭い視野では、直接に目の前にあるものしか見ることができません。体の疼きや痛み、未来に対する怖れや心配、過去への後悔、好き嫌い、私たちを取り巻く人々、などです。広がった視野を持たないので、それらしか見ることができないのです。しかし心が成長すると、一切が苦であることがわかり、もはや心配や怖れに煩わされることがありません。なぜなら、未来も過去も、一時の存在でしかないことがわかるからです。過去にも未来にも、その時々の瞬間があるだけなのです。
何らかの結果を得ようとするなら、精進にとっては、ひたむきに向かうための、一つに絞った方向が必要です。瞑想には、驚くべき量の精神的エネルギーが必要です。ところで、精神的エネルギーは、この世界に存在する唯一のエネルギーです。物質的なものはすべて精神的エネルギーの結果に過ぎません。瞑想に上達すると、精神的エネルギーが費やされることは、もはやつらいことではなくなります。それどころか、反対のことが起こります。瞑想を通じて、新たなエネルギーが自分の中に入ってくるのです。
精進はとりわけ本能の克服のために必要です。本能的な生き方というのは動物のものです。私たちははるかに進化しているのですから、熟慮ということをしなくてはなりません。しかし、自分自身や他人による本能的な反応を、私たちは少なからず目にします。本能を克服するには多くの精進が必要です。なぜなら、本能的な反応は、私たちの本性の多くの部分を占めているからです。私たちにとってまったく自然なこと、いとも簡単にやってしまうこと、それこそまさに超越していかなければならないことです。凡夫であるということは、苦を味わうということです。凡夫であることを超越するとは、解脱への道を行く聖者になるということです。私たちの自然のままの生き方を克服し、凡夫としての反応を克服するには、多大な精進を必要とします。
私たちは何をするにも精進が必要です。決意によって始めることはできますが、それを継続するのは精進です。私たちは行くべき方向を知っている時にのみ、たゆむことなく続行することができるのです。そのように進み続けられる人は、たいてい他の人よりずっと多くのことを達成し、大いに賞賛されます。これは驚くべきことではありません。これらの人々は、良く方向付けられた精進を持っているのです。(つづく)
注:悟りの七覚支(念、択法、精進、喜、軽安、定、捨)