(承前)
4.捨(平静さ)
「四人の友」の最後は、すべての感情の中で一番すばらしいもの、すなわち、「平静さ」、「物事を公平に見る心」です。
「平静さ」にとっての遠くの敵は「不安」や「落ち着きのなさ」、そして近くの敵は「無関心」です。
ですが「平静」さとこの近くの敵の「無関心」は混同されがちです。無関心な心の状態とは、「問題が我が身や我が家族にふりかかるのでなければ構わない。知りたくない。わずらわされたくない」というものでず。無関心は冷たく拒否的な態度であり、その中に愛情や慈悲は見出せません。私たちはとにかく自分を守りたいと思い、そのため無関心な態度をとろうとするのです。
しかし、公平に物事を見る心の基礎にあるのは、すべては変化するという智慧と洞察、そして、あらゆるものは永遠ではないという理解です。どんな出来事にも終わりがあります。
いかなるものにも「本質的な重要性」はありません。不変でないものにもとづく「不死にいたる道」などは標識のない道であり、何の意義もありません。解脱以外に、全宇宙において真に意義あるものはないのです。
「すべてのものは絶えず変化している。起きたことがよく思えようが悪く思えようが、それによって有頂天になったり落ち込んだりする必要はない」という洞察から、平静さが生まれます。物事はただ起きているだけです。
私たちはこの宇宙に住む人間として、恐らく60年か70年か80年、ここに存在するだけです。どうして押し合いへし合いしているのでしょうか。何を得ようとしているのでしょうか。どこへ行こうとしているのでしょうか。すべてはただ起きているだけなのに。
私たちに真の平静さが備わっていない原因はただ一つ、自我(エゴ)を守りたいからです。「私は何か危険にさらされるかもしれない。攻撃を受けるかもしれない。それによって私の命は安全でなくなるかもしれない」と、私たちは恐れています。しかし、皆が探し求めている安全は絵空事であり、妄想です。安全などあり得ません。人は皆、死を免れないし、持っているものもすべて必ず壊れるときが来ます。
私たちが愛している人も皆、老・病・死を免れず、いなくなってしまうし心変わりもします。これらのものはどれも安全ではありません。
自分にとって好ましくないことが起こったときに平静さがなくなるのは、妄想するからです。その妄想とは、自分の幸福にとって本当に大切なものを失ったと思うことです。これが自我防衛というものです。しかし幸福でさえも妄想です。なぜなら、私たちを本当に満足させ、永久に安全を保証してくれるものは何もないのですから。
平静さを得るには、ただ平静な心でいようと決意するだけでは足りません。決意は役に立ちますが、その決意が抑圧とともに行なわれる場合があります。私たちは自分の激しい感情を抑圧しがちです。それはまったく私たちに利益をもたらしません。なぜなら、抑圧された感情はいつかは外に出てしまうからです。ある面で抑圧されたものは他に出口を見出そうとします。
抑圧していると、病気になったり落ち込んだりすることがあります。抑圧されたものが、他の面で噴出してくることがあります。そうなると、私たちはある状況では動転しなくても、別の状況で混乱させられることになります。
平静さには洞察力が必要です。完全な平静さが培われたならば、悟りを得るための七覚支の一つが培われたことになります。もっとも、完璧な平静さは、悟った人のみにもたらされる恩恵です。とはいえ、私たちがいま修行せずに、どうして進歩し成長することができるでしょうか。
私たちは瞑想を通じて、変化と流転、すなわち、いかに私たちの心が絶えず変わっているかがようやく分かり始めます。自分が10分前に考えていたことを思い出せるでしょうか。一番最近の瞑想で考えていたこと、その前の瞑想で考えていたことを思い出せる人がいますか。誰もいません。私たちはいかなる思考、いかなることも留めおくことはできないのです。すべては一時的なものです。
自分が30年にわたって家を持っていた、あるいは誰かと一緒にいたからと言って、その物や人をずっと持ち続けることはできないのです。物や人が長年自分とともにあると、それらが永久に存在するように思えるものです。しかし瞑想をすれば、自分の思考が現われては消え、決して自分の中にとどまっていないことに容易に気がつくでしょう。すべてが変化し消えてしまうのなら、何を心配することがあるでしょうか。すべては絶え間なく変化し、絶え間なく流転するのです。
変化や流転が起きている間だけ、私たちは人間として存在します。呼吸し、血管が脈打ち、思考や感覚が変化している間、体内のすべての細胞が朽ち果てつつある間だけ、私たちは人間でいます。それらが止まった時、私たちは骸(むくろ)になるのです。変化と流転なくして、私たちは存在しません。ところが私たちは、変化し流転するものを、永久不変のものに変えることを望みます。私たちはそれらを固定したものにしたがるのです。「これが私だ。私は、これが私だということを皆に確実に知ってもらいたい。私には名前があり、私に属している人や物もある。私には私の見解があり、皆がそれらの見解を間違いなく知ってほしい」。
このような考え方によって、「永久不変」という概念が人間のなかにしみこんで行きます。しかし、人は絶えず変化しているからこそ、人として存在しうるのであり、最後には骸に変わってしまうものなのです。そうして私たちはまた最初から繰り返します。
平静さが芽生えるためには、ある程度の基本的な洞察力が備わる必要があります。受容も必要です。受容がなければ、苦が存在します。苦はかならず抵抗を伴っているからです。受容の反対は抵抗であり、抵抗は痛みをもたらします。何かに逆らって押そうとすると、手に痛みが生じます。逆らわずに協調すれば、痛みはまったく生じません。物事をあるがままに受け入れると、平静さが生まれ、平静さから安心が生まれるのです。
これまで述べてきた、四つの心の状態―崇高な価値のある境地―は、心に安心をもたらしてくれます。この「四人の友」をある程度まで育めば、私たちは安心と平安が得られ、安らかになるでしょう。なぜなら、たとえ世間が自分を非難し傷つけようとしても、自分はそれに巻き込まれる必要はないということが理解できるようになるからです。ブッダはこう言っています。「私は世間と喧嘩しない。世間が私と喧嘩しているのだ」これが平静さという安心なのです。
慈悲の瞑想
集中するためにほんの少しの間、呼吸に注意を向けてください。
あなたの心を観察して、心配、恐れ、悲しみ、嫌悪、恨み、拒絶、不愉快、不安があるかどうかを見てみましょう。もしそのうちのどれかを見つけても、それらは暗雲と同様、流れ去るものですから、流れ去るがままにしてください。
あなたの心の中に、自分自身に対する暖かさと友情を呼び起こしてください。あなたにとって自分自身が最良の友であることを思い起こしてください。慈しみの思いと自らが満たされた感覚で、あなた自身を包みましょう。
部屋の中にいるあなたにもっとも近い人を慈しみの思いで包み、その人が平安で幸福でありますようにという願いでその人を満たしましょう。ここにいるすべての人々を慈しみの思いで包みましょう。
平和の感情をここにいる皆に広げて、あなたが皆にとっての良き友であることを思いましょう。
あなたの両親を思ってください。両親がまだ生きていてもいなくても、慈悲の思いで両親を包みましょう。両親があなたにしてくれたことへの感謝の念と平安さで両親を満たし、あなたが両親にとっての良き友であるようにしてください。
あなたにとってもっとも身近で親しい人々のことを思ってください。見返りを期待せずに、彼らを慈悲の思いで包み、あなたからの贈り物として彼らを平安で満たしましょう。
あなたの友達のことを思ってください。心を開いて、見返りを期待せずに、彼らにあなたの友情、思いやり、慈悲の思いを示しましょう。
あなたの近くに住んでいる隣人のことを思ってください。仕事場や通りや店で会う人々をあなたの友達にしましょう。彼らが気兼ねなくあなたの心の中に入ってこられるようにしましょう。
あなたが嫌っている人々、口論したことのあるような人々、あなたに困難をもたらした人々、あなたが友達とは考えていない人々のことを思ってください。あなた自身の反応について教えてくれる先生として、感謝をもってその人のことを思いましょう。彼らに心から同情を寄せてください。彼や彼女も困難をかかえているのです。許しましょう。そして忘れましょう。彼や彼女をあなたの友達にしましょう。
私たちよりも生活がもっと困難である人々のことを思ってください。病気で入院している人々、刑務所に入っている人々、孤児院にいる人々、戦争で分裂された国々の人々、飢えた人々、障害を持った人々、目の見えぬ人々、友達や避難所を持たず、決してダンマを聞くことのできない人々のことです。その人々みんなにあなたの心を開きましょう。彼らをあなたの友達にして、慈悲の思いを示し、彼らの幸福を願いましょう。
あなたの注意を自分自身に戻しましょう。正しい努力をすることで生じた満足と、慈悲の思いを示すことで生じた幸福と、与えることから生じた喜びを感じましょう。これらの感覚に気づくようになりましょう。これらの感覚があなたの中とあなたの周りに創造する暖かさを経験しましょう。
生きとし生けるものが幸せでありますように。(完)
アヤ・ケーマ尼『Behg Nobody,Goig Nowhere」を参考にまとめました。