四聖諦(二)
―ブッダは悲観主義者だろうか―
 第一の真理においてブッダが説かれた教えは、往々にして感情的レベルで反感を買います。それによって、ブッダは悲観主義者であるとか否定主義者であるというような誤った非難が起きるのです。
 第一の真理の教えでブッダが意図したことを理解する必要があります。ブッダの究極の目的は私たちをこの苦から解放することにありました。
 苦から解放されるためには努力が必要です。そのためある種の内的葛藤が生じます。
 私たちは自分のまわりに感情という幕を張っています。そうすることによって、自分の望む方法で物事を見たり理解したりしているのです。
 しかしダンマは私たちのこのようを意向に反します。ダンマは真理なのですから、私たちは物事をあるがままに見るしかありません。正しく見ることによってのみ私たちは自由を得ることができます。ですから、私たちは自分が見たいように見ることを止め、客観的に物事を見るようにしなければなりません。
 ブッダは物事を完全に見るためには三つの角度から観なければならないと言われます。
 1)楽しみ、満足という角度から観る
 2)危険性、不満足という角度から観る
 3)解放、脱出という角度から観る
 人生には楽しみや快楽があるとブッダは指摘します。もし、この世に楽しみや快楽や所有物や人間関係などがなければ、人はこの世に執着しないだろうとおっしゃっています。まったくそのとおりです。
 快楽があるから人はこの世に執着しますし、快楽全部が不健全というわけではありません。良い家庭、真の愛、上品な楽しみ、宗教的な生活から得られる幸福は本当に満足を与えてくれます。
 しかし第二の角度から観ると、これらすべては一時的なものであり、それゆえに不満足が生じることが分かるでしょう。それゆえ私たちは、執着や欲望を捨て、これらの楽しみが完璧な満足を与えてくれるものかどうかを調べなくてはなりません。
 ブッダの教えに照らし合わせて人生を観てみると、「生まれ、死んでゆく世界」の中には真の幸福は見いだせないことが明らかになります。そこでブッダはこの苦から抜け出す方法も示しています。それが涅槃であり、涅槃に到る道です。ブッダご自身が到達された所に誰でも行けることを保障されています。ですからブッダが示された道は、最も楽観的で希望に満ちたものであると言えるのです。
 しかし苦から解放されるには、束縛の原因を見つけなくてはなりません。それが第二の真理に示されているのです。

Ⅱ.第二の聖なる真理 ―苦(ドゥッカ)の原因―
 〔あなたの苦は全能の神の意思でしょうか〕
 第二の聖なる真理は、私たちに苦の原因を示すことを目的としています。
 「なぜ私たちが苦しむようになるのか」という疑問に対する答えは、哲学や宗教によって異なります。苦は単に偶然や運命や宿命によって生じると言うものもあれば、苦は全能の神によるものだと言うものもあります。
 ブッダはこれらを信仰と想像の産物として退けます。こういう見方はすべて二つの結果に行き着きます。すなわち、苦を受動的に受け入れることを促すか、苦の症状を治していくことに熱中するかのどちらかです。
 一方、ブッダの方法では問題をその原因、根源にまで辿ります。ブッダは、苦の原因は渇愛(タンハー)だと明言しています。
 渇愛には三つの種類があるとブッダは認識していました。
 欲求には、ダンマの修行をしたいとか、布施をしたいなどの健全なものがあります。また、散歩をしたいとか眠りたいなどの、健全でも不健全でもない欲求があります。そして不健全な欲求があります。渇愛とはこの不健全な欲求、無知に根ざした欲求、個人的な満足を求める衝動のことです。
 欲求は苦(ドゥッカ)の原因として挙げられますが、苦の生起を惹き起こす唯一の要因ではありません。確かに欲求は苦の主要な要因であることは確かですが、渇愛は常にさまざまな要因が重なり合うことによって作用します。渇愛は無知と心理的・肉体的有機体によって条件付けられており、その対象を必要とします。

―三種類の渇愛―
 1.感覚への渇愛(欲愛) カーマ・タンハー
 感覚の喜びに対する渇愛。快い光景、音、匂い、味、触覚、楽しい考えに対する渇愛。
 2.存在に対する掲愛(有愛) バヴァ・タンハー
 生存の存続に対する渇愛。存在し続けたい、特別な姿形になりたい、目立ちたい、有名で金持ちになりたい、不死になりたいなどの衝動。
 3.破滅に対する渇愛(非有愛) ヴイバヴァ・タンハー
 非存在に対する渇愛。自己の破滅を望むこと。最も明白な例は自殺ですが、他の自己破壊行為も含まれます。

Ⅲ.第三の聖なる真理 ―苦(ドゥッカ)の消滅―
 〔苦は完全に克服することができる。ブッダの偉大なる言葉〕
 「この生起の過程を際限無く続ける必要はない」とブッダは言います。
 ブッダは苦(ドゥッカ)の消滅の真理を語ります。この真理によって仏教は悲観主義だという非難は粉砕されます。この真理によって、ブッダの偉大な言葉、「苦は完全に克服することができ、完全な平安の境地が開かれており、渇愛を取り除くことによってその境地に達することができる」という言葉の意味が明らかにされます。
 渇愛の終わりとともにやって来る苦(ドゥッカ)の消滅は二つのレベルで理解することができます。それは心理学的なレベルと哲学的なレベルです。
 心理学的なレベルでは、渇愛が断ち切られると心の不幸はすべて終りを迎えます。心は悲しみ、悩み、恐れ、深い悲しみと苦悩から解放されます。苦(ドゥッカ)の終焉とともに、大いなる平安、至福、完全なる喜びが訪れます。解放された方である阿羅漢は、完全な平安な状態で生きています。常に満足しており、常に落ち着いていて幸福です。肉体の苦痛、老い、痛い、その他の人生の栄枯盛衰があったとしても、阿羅漢の心には乱れが生じません。なぜなら、あらゆる執着から解き放たれているからです。
 死の瞬間に生起の過程は終了します。渇愛が無いので、新たな生存への種子は存在しません。阿羅漢の肉体の崩壊とともに輪廻(サンサーラ)は終焉を迎えます。阿羅漢は生起の世界から知覚することも量ることもできない境地に渡ります。その境地は言葉や概念の範囲を超えています。それは涅槃(ニッバーナ)と呼ばれる実在です。(続く)
 比丘 ボーディ『四聖諦』を参考にまとめました。(文責:編集部)