……心を探求するときには入念な上にも入念に、何度も何度も調べ直して理解し、十分に確信がもてるところまで何回でも調べなくてはなりません。すると、心は自然につかんでいるものを手放します。調べ方が不十分であると、いくら手放そうとしてもどうにもなりません。
ちょうど食べることに似ています。ある程度のところまで食べなければもの足りません。匙に一杯やニ杯では腹一杯になりようがなく、もっと食べないとどうにもなりません。そして、もういいとなると、自然に食べるのは止まります。もう腹が一杯だからです。
この真理は心を調べることについても同じです。十分に分った段階に達すると心は自然に手放します。即ち、「身体や感受、名づけること、思いの形成、認識」に対するすべての執着を手放します。一歩一歩、最終的には心の中まで貫くように洞察力を持って理解すると、ほんとうに回る車輪のような「回転する心」は、粉々になって跡形もなくなります。まさにそこが煩悩との戦いの苦悩が終わるところです。
一切が終わり、涅槃(nibbana)へ行きたいという願いも終わるところなのです。
涅槃へ行きたいという願いは道の一部です。それは渇望ではありません。病や苦から解き放たれたいという願いも道の一部です。それも渇望ではありません。願いには、この世における願いとダンマ(Dhamma)の世界における願い、その2つがあります。この世における願いは欲です。ダンマの世界における願いは道の一端です。
病から解放されたい、涅槃へ行きたいといった願いは、己の内なるダンマを強くします。努力は道です。ねばり強さは道です。忍耐は道です。解き放たれようとする、あらゆる努力は道です。(「ダンマの言葉」2017.4掲載)ひとたび、求めていたものが叶えられた時には、願いが消えてなくなります。そこに至って誰が涅槃を尋ねるでしょうか。
ひとたび、「回転する車輪である心」が粉々になって跡形もなくなったら、涅槃に行きたいとか、涅槃がどこにあるとか尋ねる人は一人もいません。もはや「涅槃」という言葉はただの名称にすぎません。ひとたび知って、分ってしまったら、また、ひとたび自己の本当のところに達してしまったら、さらに尋ねることがあるでしょうか。
それが心の成長を意味するものです。最も低い段階から究極の段階にまで、心を成長させてきました。ですから、今やどんなところで生きようとも満足しています。心自体が満たされていますから、どんなところでもまったく安らいでいられます。たとえ体が、痛い、熱がある、腹がへった、のどが乾いたなどの不調を訴えても、それは体がいつもの気まぐれ、圧迫、自己喪失の法に陥っているだけのことだと分っています。心というものはいつも変わりやすい、移ろいやすい性質のものです。もうそれには惑わされません。蘊(khandhas)は蘊です(訳註)。教えられたり惑わされたりするまでもなく、生来の清らかな心は清らかなままです。
どこから見ても十分に真実なものは、すべてが真実です。称賛したり、批判したりすることは、何もありません。各々がそれぞれ真実ですから、あえてぶつかり合う理由もありません。もしも、ある一面が真実で他の一面が真実でない場合には、ぶつかり合って争っている時です。何故なら、一面は本物でも他の面は偽物だからです。しかし、各々それぞれが真実である場合には問題ありません。
この段階、即ち、各々がそれぞれ真実である段階に到達するまで心を随観して下さい。ものごとのあるがままの認知と観察(Yatha-bhuta-nana-dassana)です。心はものごとの内と外を、徹頭徹尾、あるがままに知りあるがままに見て、清らかなまま落ち着いています。その場にじっとしていろと言うのであれば、清浄のうちに動き回ることもなく静かにじっとしています。
考えは、何であれ、ただ考えにすぎません。すべての蘊は、思考、識別、判断などを促す煩悩のひとかけらもない、純粋なただの蘊です。――煩悩を離れた蘊が、言いかえれば、ブッダやその気高い弟子達のような一切の煩悩から解脱した阿羅漢の、純粋なただの蘊があるだけです。
体は、ただ体にすぎません。感受、名づけること、思いの形成、認識などは、ある時が経過するまで働く、過ぎ去っていく状態に過ぎません。それらが継続する力も無くなった時には、その真理に従って、ただあるがままに手放して行くだけです。清浄さという真の本性は、まったくのところ何の問題もありません。
あらゆる慣習的な現実から完全に解き放たれた人々には、他の誰よりも特別であるとか、それより悪であるといった思いはありません。ですから、最も小さな生き物にさえ、品位を傷つけるような卑しい行いはしません。それらはすべて生、老、病、死という苦を共にしている友人であると思っています。何故なら、ダンマというものは何かしら穏やかで、優しさのあるものだからです。
その中に見出される心はどれも完全に優しく、砂の-粒一粒にも、ありとあらゆる生き物にも、思いをかけることが出来るのです。
そこには、堅苦しい心や頑固な心などありません。ただ、煩悩だけが堅苦しく頑固なだけです。それは、高慢、うぬぼれ、尊大な態度、そして虚栄心といったものです。ひとたびダンマがあれば、そのようなものは一切ありません。世の中には、ただ、常に変わることのない慈悲、慈愛の穏やかさと優しさがあるだけです。
訳注:蘊とは「集まり」のことです。生命は、色・受・想・行・識の五蘊からできていると仏教では見ています。
(1982年4月10日の講話から抜粋)
(文責:編集部)