2005年11月から2006年1月に掲載されました。今月はその第3回です。

8.目覚めること
 昨日とは昨夜の夢
 明日とは今夜の夢
 今日とは白昼夢
 「感覚の喜びとは、夢のようなものである。人は夢の中で、美しい公園、森の中の沼地、すばらしい風景や池を見るけれど、目覚めた時にはそれらの跡形もない。まさに、感覚の喜びとは、夢のようなものであったのだ」と目覚めた方、ブッダはおっしゃっています。
 ブッダは感覚の喜びという、たくさんの夢を伴った輪廻の眠りから目覚めました。夢は感覚の喜びが持つ、人を欺く性質を思い起こさせてくれます。生から生へと、こちらの母からあちらの母の子宮へと、またはある次元の存在から別の次元の存在へと、私たちは眠り続けます。誕生と同時に開くのは肉眼であり、智慧の目ではありません。
 私たちは夜夢を見て、日が昇ると目覚めますが、白昼夢は繰り返される生の中でずっと続きます。普段目覚まし時計の音で目覚めるように、死がドアをノックする時、私たちは起こされます。それは私たちが目覚める最後のチャンスです。それは荷造りをする時ではなく、手放す時です。すべての懐かしく、愛しいものからの別れがあり、喪失があり、他のものへの変化があります。


「あらゆる出会いには別れがつきものである」。


 夢の中で誰かに会う
 だが目覚めるとその人は去っていく
 大事に思っている人であっても
 人は死に、去っていく

 

9.あらゆる問題の根
 「誤った見方は最大の欠点であると私は言う」
 どのような見方をしようが、どのような見解を持とうが完全に各個人の自由なのに、ブッダは何故このように断固とおっしゃっているのでしょうか。確かに自由なのですが、私たちの欠点のすべての根源は誤った「ものの見方」に由来するという事実を否定することができません。これが問題の根です。
 種は植え付けられると、実をつけるために大地から水分と栄養分を吸収します。そしてその実は苦かったり甘かったりします。根は種が本来持っている性質に従います。しかしたとえそうであっても、「身体、言葉、心」による行いはその人が持っているものの見方に完全に影響されます。そして良いものであっても悪いものであってもその結果に直面しなくてはなりません。
 この真実があるがゆえに、ブッダは弟子たちに次の訓戒を与えられたのです。


「比丘たちよ、間違った見方を持った人の、身体、言葉、心から生ずるあらゆる行為はその人の物の見方と一致する。意志、希望、決意、準備、すべてがその人の内にあり、これらすべてが不快、不幸、好ましくないことへと繋がり、そこからもたらされるものは利益ではなく、痛みである。何故そうなるのか。それはその人の持つ、物の見方が悪いものだからである。比丘たちよ、ニームや苦いヒョウタンや苦いカボチャの種を湿り気のある大地に蒔き、種がいかに大地から水分や栄養分を吸収しようとも、それが分け与えるのは苦味、酸味、不快感である。何故か。比丘たちよ、それは種自体が悪いからである。比丘たちよ、誤った見方を持った人の場合も同じである。その見方自体が悪なのである」


「比丘たちよ、正しい見方を持った人の、身体、言葉、心から生ずるあらゆる行為はその人の物の見方と一致する。意志、希望、決意、準備、すべてがその人の内にあり、これらすべてが喜び、幸福、好ましいことへと繋がり、そこからもたらされるものは利益と至福である。何故そうなるのか。それはその人が持つ、物の見方が良いものだからである。サトウキビやもみ米やブドウの種を湿り気のある大地に蒔くと、種は大地から水分や栄養分を吸収し、分け与えるのは甘味、喜び、おいしさである。何故か。比丘たちよ、それは種自体が良いからである。比丘たちよ、正しい見方を持った人の場合も同じである。その見方自体がよいものなのである」


「種を蒔いたから実を刈り取る。良き行いをした人は良き果実を収穫する。悪しき行いをした人は悪の果実を収穫する」


「不死への門は開かれた。聞く耳を持つ者は信仰を捨てよ」(※註)


 ブッダは悟りを開かれてから、すべてのものに対して慈悲心を持って、ブッダの目で世界を御覧になりました。世界は蓮池のように映りました。青や赤や白の蓮の花が咲く池には、水中に沈んだままで水面に上がってこない蓮もあれば、水面に出てきて、その高さのままのものもあります。また水面からかなり上に伸び、汚れのない清らかさを保っているものもあります。他の中の蓮のように、この世の人は心の成長の度合いにおいてさまざまな段階にいます。ある人は鋭く機知に富んでいますが、鈍い人もいます。良い性質を待った人もいれば、悪い性質を待った人もいます。真理を受け入れる人もいれば、そこからしり込みしてしまう人もいます。
 蓮がつぼみから満開の状態へと成長していくのとすべて同じです。世間の人も輪廻の中での成長において三つの段階を経ます。
Ⅰ.満足(assada)
Ⅱ.危険(adinava)
Ⅲ.出離(nissarana)
 人間は無知に惑わされて、生と死の終わりのない円環の中に満足を見出そうとしています。しかし輪廻というぐるぐる回る「メリーゴーランド」の中で危険を認識する時が来ます。そうすると出口を探し始め、五重奏の管弦楽すなわち、五官の快楽の騒音の渦中でそれらが停止するように求めて泣き叫びます。


「私を真理でないものから真理へ導きたまえ!
私を暗闇から光へ導きたまえ!
私を死から不死へ導きたまえ!」


 そのような人たちにブッダは上述のように保証しておられるのです。


「不死への門は開かれた。聞く耳を持つ者は信仰を捨てよ」。


10.自分の「要素」と共にある
 私たちは自分の「要素」から離れている時、居心地の悪さを感じます。自分の「要素」と共にある時、安楽な気持ちになります。この安楽さを感じるための最も基本的な条件は四つの要素――地、水、火、風――の知識を持つことです。
 私たちは内面・外面の四要素の違いを探すことに夢中になりがちで、それにより自分自身を居心地悪い状態におとしいれています。この世において自惚れや偏見がどれだけ横行していることでしょう。自惚れと偏見でもって外見上の違い――肌の色、形、大きさの違い――ばかりに注目しています。しばしの間熟考して、自らが結局は、「地、水、火、風」のかたまりにすぎないことを知る時、これらすべては表面的で些細なことに見えてきます。私たちはこれらの些細な違いにこだわらずに、「四要素」という普遍的な旗の下に団結することができます。
 ブッダは内面・外面の四要素を熟考すれば平静さを得ることができ、安楽と心の平安がもたらされるとおっしゃっています。つまり私たちは自分の周囲の親しい人々や他の生き物と一体なのです。私たちの身の回りの生き物も物質も見た目は多様で鮮明な色彩をしていますが、深く落ち着いて瞑想すると、それらはすべて一つで、本質的には不可分の構造の中にあることが分かります。実は「周囲」という考え方でさえ、一体性という基本概念の中に溶けてしまい、最後には平静さを感じることができます。
 そこで私たちに必要なのは、通常的な感覚というこの途方もないものを降ろすために、四つの要素――堅さ、流動性、熟、動き――の性質を、自らの体の部分と働きの中に熟考していくことです。
 私たち自身の基本的構造を確信するのに顕微鏡など必要ありません。自分の髪の毛、皮膚、肉、骨は地要素の親類であることがわかります。胆汁、粘液、血液、汗は水要素の一つです。空腹感や熟はその中に火要素があることを認識させてくれます。呼吸により私たちが風要素と共に動いていることが分かります。
 「要素を見る」修行が一たび完成すれば、すばらしい安楽な感覚――三次元的世界でさえ、単なる色の艶劇こすぎないような一次元の絵、それも枠組みのない絵に溶解していってしまうという感覚――を得ることができます。(完)


 ※注:中村元先生は、「恐らくヴェーダの宗教や民間の諸宗教の教条に対する信仰を捨てよ、という意味なのであろう」(ブッダのことば p.431)と解説しています。
(文責:編集部)