2005年11月から2006年1月に掲載されました。今月はその第2回です。
4.最高の自由
自由と責任は二重拘束として切っても切り離せません。この世のあらゆる段階の自由は、ある程度の責任と結びついています。権利と特権は責任と義務を犠牲にしてのみ享受することができます。皆さんは自由ですが、義務に縛られています。
現世の状況における不調和は、私たちが資産に依存していることから起こります。あらゆる資産は、結局のところ、負債となります。まさに資産に対する獲得と保持そのものによって、私たちは縛られているのです。依存とは両方向のものです。私たちは資産に依存しているために、資産は私たちに最大の犠牲を要求するのです。
しかし、資産の無い自由はあるのでしょうか。ブッダは「ある」と言っています。ブッダはニッバーナを「無資産」(ニルパーディ“Nirupadhi”)と表現しました。これは、あらゆる資産の無い、この世を超越した自由です。五蘊(五つの集合体、すなわち色・受・想・行・識)はこの世の者達による資産だと見なされています。この世の者達は、資産に依存することによってアイデンティティとしての自我を得ています。
輪廻の存在は、これらの資産を増やしていく無限のプロセスです。しかし、悲劇は誰も資産を支配できないということなのです。ところが実際には、世間の人は惨めな奴隷状態を僅かな支配として自慢します。
この僅かな支配には、その割り当て分の責任が伴います。人は行為における三つの門、すなわち、身体、言葉、心においてなされる行為に対して道徳的責任があります。これに伴うカルマの絡み付きは、生、老、病、死、愁、悲、苦、憂、悩、そして苦諦に示されているその他のすべての苦と、延々と続きます。
この多重の苦から自由への道は、五蘊=「資産」を支配できるという考えは自惚れでしかないと理解すること、を通じて得られます。この理解によって、すべての資産の放棄へ至る厭離と離貪が生じます。このようにして、人はこの僅かな支配を放棄し、最高の自由、すなわち「無資産」を獲得するのです。
5.「アテンション・プリーズ」
ダンマの文脈において、アテンション(注意)とは、根源または発生源に対する洞察を通じて、物事の根源に到達することを目的とする「根本的注意」です。注意は、展望を散漫にしたり曇らせたりする、雑念という落とし穴を避けようとします。
この正しい種類の注意はマインドフル(*註)であることと、全面的な気づきと共にあります。マインドフルであり全面的に気づいていると、人は自分の注意を現在の瞬間に狭めることができます。
私たちの日常生活において、日常活動の些細な事に注意を払うことはめったにありません。注意は常に要求されるべきものです。私たちはかなり機械的に日常の仕事を行います。私たちの行為は大部分が衝動的なものです。通常の生活において、慣れきったやり方のほうが快適だと感じます。日常活動の些細な事に対する深い洞察を得るための隠れた潜在力は無視されます。
しかし、最も些細なものが最も深遠なものになることがよくあります。人は最も普通のことに注意を払うこと、すなわち呼吸や姿勢を変えることや生理的要求に答えること、などの日常生括の活動を見ることによって、この真理に目覚めます。根本的な注意によって一見些細な生活状況の中に、新鮮な洞察により常に新しい層を明らかにします。
注意の範囲は、サティパッターナ・スッタ(四念処経)に記されている四つの気づき(サティ)の基礎、すなわち身・受・心・法に対する瞑想に渡ります。注意が鋭くなればなるほど、基礎はより深くなります。
マインドフルな状態と全面的な気づきでスイッチを押された鋭い注意という「武装解除の光線」は、透徹する智慧の働きをします。これは、攻撃の受け流しと突きに熟練した剣士のように活発に動いて、マーラ(悪魔)の軍勢を寄せ付けません。
洞察の瞑想は注意を増して、多く出てくる思考の芽を摘むという原理で作用します。通常、注意は心の対象をつかめるほど鋭くはありません。注意は、思考の速度にはほとんどついて行くことができません。思考の根をつかむには、非常に注意深くなければなりません。注意深さが足りないと、思考は必ず飛び跳ねてどこかへ行ってしまいます。ですから、優れたテニスプレーヤーのように、「接触」のまさにその瞬間に注意というラケットを振らなければなりません。
しかし接触を熟知し理解して
平安を楽しむ人々は
実に接触がほろびるが故に
快を感ずることなく
安らぎに帰している (スッタニパータ 737 岩波文庫、中村元訳)
6.よき運転者たれ
私たちの人生を旅に例えてみましょう。体は車です。旅は四種類の動きすなわち、歩く、立つ、坐る、横になる――を通じてなされます。これは私たちが日常生活において繰り返し行っていることがらです。
よき運転者となるためには、事故を避けなければなりません。よちよち歩きの子僕の頃、まっすぐ歩けるようになるまでに何度も事故に遭いましたが、ブッダの唱えられた八正道をまっすぐ歩くにはよりいっそうの注意深い気づきが必要です。
私たちは「姿勢の交差点」で不注意な行動をしがちです。気づきのない状態に陥る「事故」を避けるためには、「姿勢の交差点」に気をつけなければなりません。姿勢を変えるときには、機械的、衝動的になりやすいものです。そのためには思考のスピードを落とし、注意力をより鋭くしておく必要があります。
「私は歩いている」と気づいて歩き、「私は立っている」と気づいて立ち、「私は坐っている」と気づいて坐り、「私は横たわっている」と気づいて横たわります。体が何かをしたいと思った時は、そのことに気づいていなければなりません。
輪廻という危険な道を車に乗って向こう見ずに進んできたために、私たちは多くの事故と死に出くわしてきました。これからは少なくともできる限り頻繁に「退却」しなければなりません。そのためには「姿勢の交差点」に気をつけつつ、ゆっくり、注意深くかつ常に気づきをもって四つの動作を行うようにする必要があります。このようにして私たちは、注意深さ(appamada不放逸)を育てることができます。これこそブッダが不死の道と説かれたものです。
気づきは不死への道であり
気づきがないのは死への道である
気づいている人は死に遭うことはない
気づきのない人は死んでいるのと同様である (ダンマパダ21節)
7.心を制御する技術
早い川の流れを堰き止めるには四つの努力が求められ、精力的に取り組まなければなりません。
1.流れている水を止める
2.そこに流れ込んでくる水を取り除く
3.ダム作りの基礎を築く
4.徐々にダムを建設しで補強・安定させる
早い思考の流れを堰き止めるにはやはり四つの努力が必要です。
私たちは以下のことをしなければなりません。
(1)不健全な思考が入ってくるのをチェックし抑止する
(2)生じてきた不健全な思考を捨てる
(3)まだ生じてきていない健全な思考を喚起する
(4)既に生じた健全な思考を補強・安定させる
努力の方法はいずれの段階においてもまったく同じです。常に真剣に集中して取り組むことです。抑制、放棄、発展、安定という四層の努力のためには、私たちは興味を喚起し、努力をし、精力的になり、決心を固め、精進のためにはあらゆることをしなければなりません。
これが智慧と解脱につながる八正道を完成するための正しい気づき(正念)と正しい集中(正定)を成長させる正しい努力(正精進)なのです。
アジタよ、この世にどのような流れがあろうとも
気づきをもって注意している
これが流れを抑止する方法であると私は説く
智慧によって堰き止められるのだ (スッタニパータ1035)
訳註:マインドフル(mindful)は、次の三つの意味を含んでいます。
(1)気づき (2)注意深さ (3)熱心さ
(文責:編集部)