「月刊サティ!」2005年1月~2005年5月号に掲載されました。今月はその4回目です。
あなたの肉体は、生まれたときから、今老いて病むにいたるまで、肉体がたどる自然な道に従ってきました。そして、あなたは肉体がそんなふうに変化していくのを止めることはできません。それがあるべき姿なのです。肉体がそのようでなければいいと望むのは、アヒルが鶏の雛であればいいと望むのと同じくらい愚かなことです。それは不可能なことです。アヒルはアヒルだし、鶏の雛は鶏の雛だし、肉体は老いて死ぬものです。このことを理解すると力とエネルギーが湧いてくることに気づきます。肉体が長く生き続けることをあなたがどれほど強く望んだとしても、そうはなりません。
ブッダはこうおっしゃいました。
Anicca vata sankhāqra
Uppāda vayadhammino
Uppajjhitva nirujjhanti
Tesam vupasamo sukho.
諸々のサンカーラ(行い、状態※)は無常であり、
生じては滅する定めである。
生じた限りは、滅してゆく。
諸々のサンカーラ(行い、状態)が静まることは幸いである。
sankhāra(サンカーラ 行い、状態)という言葉は、この肉体と心に当てはまります。サンカーラは無常で、不安定で、生まれたからには消え、生じたからには滅します。それにもかかわらず、誰もがサンカーラが常であることを望みます。これは愚かなことです。呼吸を見てみなさい。入ってきたら出て行きます。それが呼吸の本性なのです。それがあるべき姿なのです。入息と出息は交互に行われます。つまり、必ず変化があります。
サンカーラは変化によって存在し、あなたにはそれを妨げることができません。考えてみなさい。息を吸わずに息を吐くことができますか。それでうまく行っていると感じますか。また息を吸うことだけを続けられますか。
私たちは物事が常であることを望みますが、それはありえません。不可能なことです。一旦息が入ってきたら、息は出て行かなければなりません。出ていったら今度は入って来ます。それが自然ではありませんか。私たちは、生まれたなら歳を取り、病気になり、そして死にます。それはまったく自然で普通のことです。サンカーラが自分の仕事をしてきたからこそ、入息と出息がこのように交互に行われてきたからこそ、人類は今日でも存在しているのです。
私たちは生まれたと思ったらすぐに死がやってきます。私たちの誕生と死はまさに一つのことなのです。これは木と同じです。根があれば枝があり、枝があれば根があります。どちらか一方だけということはありません。おかしなことに、人々は死に際しては憂いに打ちひしがれ、混乱し、涙を流し、悲しくなりますが、誕生に際しては、嬉しくなり、喜びます。これは幻影です。このことを明確に理解している人は誰もいません。
私が思うに、あなたが本当に泣きたいと思うなら、誰かが生まれたときに泣いたほうがいいのです。というのは、実際に、誕生は死であり、死は誕生であり、根は枝であり、枝は根だからです。もしあなたが泣かなければならないなら、根でも泣きなさい、誕生でも泣きなさい。よく見てみなさい。誕生がなければ死も無いのです。このことが理解できますか。
考えすぎてはいけません。ただ、こう考えるのです。「これが物事のあり方だ」と。それがあなたの仕事、義務なのです。今、誰もあなたを助けることはできません。あなたの家族や、あなたの持ち物があなたのためにできることは何もありません。今あなたを助けることができるのは、「正しい気づき」だけです。
ですから、怯んではいけません。手放しなさい。すべてを捨てなさい。たとえあなたが手放さなかったとしても、どうせすべての物があなたのもとから去り始めます。それが分かりますか。あなたの肉体のあらゆる部分がどのように離れていこうとしているのか分かりますか。髪の毛を見てみましょう。あなたが若かった時はふさふさとして黒かったのが、今では抜け落ちていっています。あなたのもとから去って行っているのです。あなたの目は良く見え、強かったのに、今では弱くなり、視界はぼやけています。
諸々の器官が十分に働き尽くしたなら、去って行きます。この肉体がその諸々の器官の家ではないからです。あなたが子供のとき歯は健康でしっかりしていました。今ではぐらぐらし、おそらく抜けてしまった歯もあるでしょう。あなたの目や耳や鼻や舌――すべてが去ろうとしています。なぜなら、この肉体がその家ではないからです。
あなたはサンカーラに常なる家を建てることはできません。少しの間滞在したら出て行かなければなりません。それはまるで借家人――見えなくなりつつある目で自分の小さな家を見ている――のようではありませんか。その借家人の歯もそれほど良くなく、耳もそれほど良くなく、肉体もそれほど健康ではありません。すべてが去りつつあります。
ですから、あなたは何も悩む必要はありません。なぜならこれはあなたの真の家ではなく、一時的な避難所でしかないのですから。この世に生まれたからにはその本質について良く考えるべきです。存在するすべてのものは消え去る準備をしているのです。
あなたの肉体を見てみなさい。あなたの肉体で未だに生まれたときのままのものがありますか。皮膚は昔のままですか。髪の毛はどうでしょう。同じではありませんね。みんなどこへ行ってしまったのでしょう。これが自然、物事のあり方なのです。時間が来ると、諸々の行い、状態はそれぞれの道を行きます。この世界は頼れる存在ではありません――不安と困難の、喜びと苦しみの無限の繰り返しです。平安はありません。
私たちは、本当の家が無いと、目的の無い旅人と同じで、しばらくこっちの道を行ったかと思えば今度はあっちの道を行き、しばらく滞在したかと思ったら再び出発します。私たちは真の家に戻るまで、何をしても落ち着かず、旅に出るために自分の村を出た人と同じです。家に戻ったときにだけリラックスして落ち着けるのです。
世界のどこにも真の平安を見出すことはできません。貧乏人にも平安はありませんし、金持ちにもありません。大人にも平安はありませんし、子供にもありません。僅かな教育しか受けられなかった人にも平安はありませんし、高い教育を受けた人にも平安はありません。どこにも平安はありません。それがこの世の本質です。
少ししか所有物の無い人も苦しみますし、所有物をたくさん持っている人も苦しみます。子供も大人も老人も、みんな苦しみます。歳をとっていることの苦しみ、若いことの苦しみ、富を有することの苦しみ、貧乏であることの苦しみ――すべては苦しみ以外の何物でもありません。このようにして物事について良く考えたなら、あなたはanicca(アニッチャ:無常)とdukkha(ドゥッカ:苦、不満足)を理解します。なぜ物事は無常で苦なのでしょうか。なぜなら、物事はanatta(アナッタ:無我)だからです。
ここに病気で苦しんで横たわっているあなたの肉体と、その病気と苦痛に気づいている心はダンマ(法)といいます。形の無いもの、思考、感情、感覚はナーマダンマ(名法)といいます。疼きと苦痛に苦しめられるものはルーパダンマ(色法)といいます。物質もダンマですし非物質もダンマです。ですから、私たちはダンマと共に生き、ダンマの中に生きており、私たち自身もダンマなのです。本当に、どこにも我を見つけることはできません。ただダンマが連続的に生じては滅しているだけです。それがダンマの本質です。一瞬ごとに私たちは誕生と死を経験しています。これが物事のあり方です。
※サンカーラとは、現象を作り出す働きのことで、伝統的には「行」と訳されています。ですから、この文は「諸行無常」と訳すこともできます。ここでは、サンカーラを「行い、状態」と訳しておきました。
Ajaan Chah「Our Real Home」よりまとめました。
(文責:編集部)