離欲のプロセスの一つとして、私たちは自分の所有物、自分はこういう者だという思い込み、何かになりたいという欲を捨てることができます。日常生活で手放さないと、瞑想中に手放しにくくなります。瞑想中には、思い、願望、判断、期待、欲求、楽しみを手放さなければなりません。瞑想したければ手放さなければならないのです。従って、他の時でも手放す作業を実践する必要があります。所有物や家族を捨てろと言っているのではありません。それらのものに依って自己像を作り上げることをやめるという意味です。

 離欲にはさまざまなやり方があります。それは自分自身の鍛練でもあるのです。いつもより早く起きたり、より心地よい状態を求める気持ちを捨てる等もそうです。食べたい時にいつも食べるのではなく、本当に空腹を感じるまで待つのも離欲です。人生の終わりが来たら、すべて捨てなければならないのです。「私のもの」と呼んでいる所有物や人々を一緒に持って行くことはできないし、「私のもの」と言っているこの体さえも持って行けません。死がやって来る前に、死について何らかの知識が入ってきます。そのせいで、人は往々にして死ぬ瞬間が苦痛になるのです。安らかに死ぬ人もいますが、たいていの人はそうではありません。すべてを手放す準備がまだできていないからです。それまで手放すことについて一度も考えなかったのですから。

 私たちが執着しているものは、すべて邪魔な障害物です。私たちはたいてい自分以外の人に執着していますが、手放す必要があります。これは他人を排除するという意味ではありません。自分の、他人に執着しようとする態度を手放すという意味なのです。執着しようとする態度は最大の障害物です。手放す方向にいくらかでも進まないと、瞑想も妨げられることになります。なぜなら私たちは、自分の考え、願望、希望に執着し続けようとするものですから。

 以前と同じ家に住み続け、同じ服を着、外見は変わらないままでも、一番強く執着していたものをいくつか捨てることができます。何も家族を愛さなくなるということではありません。執着心のない愛こそが恐怖心のない愛であり、それゆえ純粋な愛なのです。執着心のある愛は束縛になります。それは感情の波で出来ており、目には見えない鉄の手かせ足かせを作り出すのが常です。真の愛とは執着しない愛であり、見返りを期待しないで与え、寄りかかるのではなくそばにいてあげられるものなのです。

4.「智慧」
 人生で進むべき正しい方向を見つけるには、智慧が必要です。智慧の相棒は信です。信と智慧は共に働くことが必要です。
 ブッダは信のことを盲目の巨人に、また智慧のことを、よく見通すことのできる眼はもっているが、手足の不自由な人に例えました。二人は出会います。「信」は「智慧」に言いました。
 「私は頑丈な身体を持っていますが、自分がどこに向かっているのか分からないのです。あなたはとてもか弱そうですが、よく見通せる眼を持っています。さあ、私が肩車をしますから、一緒に遠くまで行きましょう」
 盲目の信は、山をも動かすほどの力持ちですが、残念ながらどの山を動かすべきかが分からないのです。智慧は、方角を指し示す際に必要不可欠です。智慧は、内なる洞察という鋭い目を持っています。
 智慧というのは興味深い要素です。それは学んで得ることができるものではなく、心の清らかきの中から生まれてくるものだからです。
 
 智慧には三つの段階があります。
 一つめは学ぶことです。それによって、知識を創り出します。学校や大学に行くこと、読書や、学識のある人々から話を聞くことによって、知識を得ることができます。そうして得た知識は、咀嚼して、私たちの心の一部にしなければなりません。私たちが食物を消化する時、不要なものは捨てられます。体にとって有用なものは取り入れられ、血液となりエネルギーになります。知識を取り入れる場合も全く同様です。知識を消化し、有用でないものは捨てられ、最良のものだけを血液の中に取り込みます。食物が消化されて身体を活動させるためのエネルギーになるのと同じように、知識は智慧に変容します。これは、心の中で起こる変化であり、そのために莫大な量の書物を読み消化しなければならない、ということではありません。量ではなく質が大切なのです。食物の場合と同じです。
 情報の場合も、消化する前に、よく噛み砕いて飲み込むことが大切です。食物が体内で適切に利用されることが、身体の成長に必要なのと同様、心の成長には、私たちの「内なる働き」、すなわち精神の働きが不可欠です。
 ブッダの教えについても、私たちの「内なる働き」が無ければ、その数えはブッダやサンガだけのものに留まり、何度繰り返し聞いたり読んだりしたところで、私たちの身には付かないでしょう。私たちが情報を噛み砕き、飲み込み、消化するということをしないならば、それは内なる智慧に変容することも無いのです。
 より多くの智慧があれば、浮き沈みの少ない、調和の取れた人生を送ることができます。智慧を欠いていると、抜け出すのが非常に困難な状況に陥ってしまいます。そこから脱出できなくなる場合もあるかもしれません。智慧があれば、そもそもそうした困難に陥ることがありません。
 もし智慧に、それを支える信が伴うならば、とても強力なものになります。巨人の信は大いなる自信に満ち、動揺することがありません。そこに智慧の、鋭い眼の働きが加われば、悟りへと導かれて行きます。
 信を伴わない智慧は、どっちつかずの性質を帯びることがあります。疑問や問題があると、智慧には、それらの表と真の両面が見えます。しかし、智慧それ自体は、信と違い、確固たる決意をするということがないのです。
 信は外のものに頼る必要がありません。外のものに依存してしまった信は、動揺しやすくなります。なぜならば、そうした信の場合、外のものの存在が証明できなければならず、その存在が疑いようのない形としてあることが必要になるからです。しかし、何であれ、人がその存在を信じているならば、誰もそれに対して疑いを投げかけることば許されません。
 最も効力のある信は、悟りの段階へ至る自らの能力に対する信です。その信に加えて、正しい道を見出したという信が生じることもあります。それは、智慧という鋭い眼で見出したダンマ(法)への、揺るぎない信なのです。(アヤ・ケーマ尼『Being Nobody, Going Nowhere』を参考にまとめました)