今月号より、2006年5月号から連載されました比丘ボーディによる法話、「縁起」を再掲載いたします。今月はその第1回目です。

縁起(パティッチャ・サムッパーダ)
 ブッダは「縁起を見る者はダンマを見、ダンマを見る者は縁起を見る」と語っています。ダンマとはブッダが発見した真理のことです。ブッダは説法の中で、自らが悟った深遠な真理と縁起とをはっきり同一視しています。また、解脱の探求について説明する中で、「解脱の直前、坐して瞑想していたときに、条件の連鎖を追究し始め、苦の根本の原因を捜し、その結果、縁起を発見した」と語りました。ですから、ある視点から言うと、縁起の発見は解脱の成就そのものに等しいと言うことができます。
 ブッダはこの縁起について、真理としても深遠であり、その現れにおいても深遠であると言っています。この縁起の真理を理解せず見抜けないために、衆生たちはもつれた糸球のようにからまり、あるいは雑草のようにからまり、苦しい生存状態を超えることが出来ず、輪廻(サンサーラ)から逃れることができません。このように、縁起とはブツダの解脱の内容であり哲学的教義であるばかりでなく、苦からの解放を得るために悟らなければならない真理でもあります。ですから、これはダンマの知的理解の鍵であるばかりでなく、解脱の成就そのものの鍵でもあるのです。

相互依存性(conditionality)の法則
 さて、縁起の教えには二つの側面があります。一つ目の側面は抽象的原理です。構造原理と言っていいかもしれません。二つ目の側面はその原理を苦の問題へ適用することです。縁起は、あらゆる過程とすべての現象の背後に構造原理として抽象的な形で存在する、最も基本的な法則です。この法則には始まりも終わりもありません。
 すべての現象の基礎をなすこの構造原理が、相互依存性の法則です。即ち、生じるものはすべて条件に基づいて生じ、存在するものはすべて条件に基づいて存在する、という法則です。そして、適切な条件の支えがなければ、どの現象も存在し続けることは出来ません。
 このことは次の定型句で示されています。

 「これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる。これがないとき、かれがない。これが滅するとき、かれが滅する」

 この文句の前半、肯定形の部分では、条件によって現象が生まれることを説明しています。後半では、条件によって現象が消滅することを説明しています。
 いかなる要因であれ、存在するようになるためには、そのための条件Aが存在するか機能していなければなりません。つまり、現象Bは条件Aに縁って生じるのです。たとえば、りんごの木はりんごの種に縁って存在しています。りんごの種が存在すれば、りんごの木は存在するようになることができます。りんごの種が生じることで、そのりんごの木も生じることができます。
 Bが生じるための条件であるAが存在しなければ、現象Bは存在しません。しかし、Aに縁ることでBは存在しています。ですから、Aが存在しなくなるとBは生じなくなり、Aが滅すればBも滅します。
 話をりんごの木に戻すと、りんごの種が存在しなければりんごの木は存在しえませんし、その種を潰してしまえばそこからりんごの木が育つということはありません。というのは、その木はその種に縁っているからです。

宇宙の最初の原因
 この相互依存性の法則は存在するすべての現象を包み込む法則です。塵の一粒から世界的なシステムまで、束の間の思考から大帝国全体まで、組み立てられたもの、合成されたものすべては、適切な条件がそろったときにだけ生じます。そして条件が存在しなければ現象も存在しません。
 この相互依存性の法則はブッダが創り出したものではありません。常に機能している法則です。ブッダは、覚者が現れようと現れまいとこの法則は存在し続ける、と語っています。
 相互依存性とは、条件や事象が蜘妹の巣の糸ように繋がった、複雑で相互に関係するネットワークのようなものだと仏教では考えます。条件や事象とは直線上の点ではなく、ネットワーク上の結節点のようなものです。仏教の相互依存性の考え方では、たった一つの原因から生じる現象はありません。いかなる現象であれ、生じるためには多くの条件がなければなりませんし、中心的な多くの要因が機能的にまとまって一緒に働かなければなりません。さらに、これら多くの条件によって生じた現象はいずれも、それ自体が他の多くの現象を生じさせる条件としての役割を果たします。このように、個々の原因となる要因には、一つの結果ではなく多くの結果があるのです。
 たとえば、りんごの木は種だけから生じるわけではありません。確かに種は最も主要を条件です。しかし他にも、土、水、日光、肥料などが必要です。木に成長すると、今度は多くのものの原因となります。
 多くのりんごの実がなり、それぞれのりんごの実には多くの種があり、それぞれの種は別のりんごの木の原因となり、その別の木はまた多くのりんごを生み出します。
 ですから、この複雑に連結した事象の綱目全体にはいちばん最初の原因というものはありません。これは仏教の相互依存性の概念と西洋の思考法の大きな違いです。通常、西洋人は因果の連鎖には最初の原因があるはずだと考えますが、仏教では出発点となるような始まりは存在しません。考えられるような始まりもなく、境界や限界もなく、原因と条件が連鎖し続けているのです。