9月号より、2006年5月号から連載されました比丘ボーディによる法話、「縁起」 を再掲載しています。今月はその第3回目です。
縁起の理論の実践
さてこの教えの実践について考えてみましょう。すでに見たように、最も重要な点は感受と渇愛をつなぐ連鎖にあります。それが、ブッダが四聖諦の中で苦の起源として渇愛を選び出した理由です。ですから私たちが自らの実践の中でしなければならないことは、感受が渇愛を引き起こすのを防ぐことです。
私たちは生じてくる感覚に注意深くし、はっきりと気づかなくてはなりません。感受を喜ばず、しがみつかず、執着しないことです。もし楽の感受が生じた時に気づきを欠いているならば、渇愛が生まれる結果となります。私たちはその対象を楽しみ、それに執着するようになり、それが与えてくれる楽しみをもっと望むようになります。
しかし、もし私たちに気づきがあり「楽の感受が生じた」と知るようになれ、それに屈服せずに気づいて立ち止まることができます。そして、智慧をもって見ることで、私たちはその感受を、「無常、苦、無我」として理解します。こうすることによって感受から渇愛が生まれるのを防ぎます。智慧をみがき続けるにつれて、智慧は根本にある無知を断つまで、より鋭くより深く成長します。智慧は無知の積み重なりを一つ一つ断ってゆき、すべての無知が削除された時に、悟りの状態に達します。縁起の終わりです。
無知(無明)――Avijjā
ブッダは無明(Avijjā )をもって要素の連鎖を説き始めました。過去世において私たちの心は根本にある無明によりものごとがよく見えなくなっています。この無明について、いつから始まったのかを見つけだすことはできません。過去世をどこまで遡っても、私たちの心はいつも無明によってものごとがよく見えていなかったことが分かります。
無明とは何でしょうか。ブッダは無明を、「四聖諦を知らず、理解しないこと」として定義しています。四聖諦とは「苦、苦の起源、苦の滅尽、苦の滅尽への道」という真理です。無明とはこれら四聖諦について単に概念的に理解していないというだけではなく、十分な深さと範囲において理解していない精神的な無知のことを指します。
いつから始まるともなく遥か昔から、私たちは無知によって物事を永遠で、楽しく、魅力があり、「私」であるものとして見るよう導かれ、「無常、苦、無我」という本当の性質を見ることができなくなっています。
この無明から食欲、嫌悪、慢、間違った見解、嫉妬、わがままなどのようなすべての煩悩が出て来ます。「無明は、それ自体は他に原因を持たないような、物事の最初の原因ではない」ということを強調しなければなりません。無明もまた条件によって生じます。心の要素(心所)として、無明はこれら生き物たちの心と身体に依存しています。
それは条件によって生じますが、無明は最も根本的な条件なのです。
それゆえに、ブッダは説明のための最初の要素として無明を取り上げました。私たちが完全に解脱に至るまでこの無明は私たちの心を支配し、行為に導き、その行為が将来また新たな誕生を引き起こします。こうして、最初の二つの要素をつなぐ第一の縁起に至ります。即ち、「無明を縁として意志的な形成作用(行)が生じる」です。
意志的な形成作用(行)――Sankhāra
精神の無知である無明により、私たちは行為に引き込まれます。私たちは自らの意志を活性化します。サンカーラ(Sankhāra:行)は「形成する、建設する、創造する、組み立てる」ことを意味し、ここでは特に心的な形成作用のことを言っています。サンカーラという要素は業と同じものです。業は「意志的な形成作用」や「意志的な行為」を意味し、それは身体や言葉を通して外部に表現されます。
無明を包含する心が生み出す意志的行為はいつも、その心の中に痕跡を残します。つまり、それが熟し、将来に実を結ぶ力を持った形成作用を残します。それは潜在力のある種子、つまり将来に発芽し結果を生む力のある種子として心にまかれます。
縁起という関係の中で、意志的な形成作用(行)の最も重要な面は、将来に新しい存在を発生させる力、つまり再生をもたらす力です。この意志的な形成作用はそれが善なる意志作用か不善なる意志作用かにより、善い再生か悪い再生をもたらします。こうして十二縁起の次の連鎖へやってきます。「意志的な形成作用(行)に縁って意識(識)が生じる」です。
意識(識)――Viññāṇa
もし、意志的な形成作用(サンカーラ)が心に蓄積され、無明がまだ存在するならば、死が起きた時、引き続いて新しい意識の瞬間が生じるでしょう。これは新しい生の最初の意識の瞬間です。仏教徒の見解では、意識は「永続性のあるひとつの実体、あるいは自我や不変に続く魂」としてはみなされていません。
意識とはむしろ「意識の出現の連なり」であり、海の彼のようにそれぞれ生じては滅して行くものです。死が起きた時、この生涯で最後の意識の出現が生じ、そして滅して行きます。しかし、無明と意志的形成作用(行)によって、最後の意識の出現(死心)から新しい意識の出現が生まれます。それは母の子宮の中で生まれ、未受精卵と結びつき、そして新しい存在が始まります。
妊娠と同時に起こる最初の意識の出現は「Pawisandhicitta」、すなわち「再結合する意識(再生識)」と呼ばれています。なぜならばそれは現世と過去世とを、つまり新しい存在とすべての過去とを結びつけているからです。再生の意識が生じると、それは短い瞬間続き、そして滅して行きます。しかし、その再生の意識のあと即座に、これと同じ基本的な形をもつ意識が、全生涯を通じて一連の心的活動として流れ始めます。それは私たちの心のすべての活動状態の基礎にあって、死までずっと続く意識の受動的な流れとして流れます。この受動的な意識の流れはbhavvanga(バーヴァンガ:有分心)、「存在の流れ」と呼ばれています。