2.「持戒」
 十波羅蜜の中で「布施」に続くのが「持戒」です。これは五戒を守ることに係わってきます。嫌悪や貪欲を減らしていき、それらの最終克服を目指しています。嫌悪と貪欲は自我妄想が原因で発生するため、これらをなくしていくとは、エゴをなくしていくことのもうひとつの方法でもあります。
 すべてのブッダの教えは同じ方向性を持っています。ブッダが心の解脱に向けてあまりにも多くの、異なる教えを説いたので、人々は混乱することがあります。しかしながら、これは巨大なジグソーパズルのようなものです。数片が本来あるべき場所におさまれば、すべてが一枚の整った絵として完成するのです。ダンマが全体として目指しているのは、まずエゴを処理可能な大きさにまで減らしていき、最終的にエゴをすっかり取り除くことです。

 戒律に従いそれを守ることは、パズルの絵の一部なのです。生命を傷つけなければ、心の中の嫌悪も消滅します。嫌悪感を持つ時にのみ、傷つけたり殺したりするのです。与えられていないものを取らなければ、食欲を減らせます。貪欲が存在するときにのみ、私たちは自分の物でない物を取るのです。性的不品行にも同じことが言えます。悪語は貪欲か嫌悪のいずれかに原因します。薬物やアルコールに手を出すのは、たいていの場合、それらを使えば簡単に手に入りそうな快楽を求める食欲のせいなのです。(アヤ・ケーマ尼『Being Nobody, Going Nowhere』を参考にまとめました)

3.「離欲」
 離欲は、出離とも訳されます。英訳ではrenunciationになっていて、これは、放棄、断念、手放すということです。
 離欲というと、僧や尼僧や、どこかの洞窟にこもって修行している行者など特殊な人たちのためのものと思われがちですが、それだけでは離欲を正しく理解したことにはなりません。離欲とは自分のエゴから生ずる願望を捨てることで、多少でもそれをしない限り、瞑想がうまくいきません。
 エゴは楽しみを求めます。繰り返し求めます。エゴは、静かにさせられ、おもしろいと感じるようなことを何もさせてもらえないと、実に激しく抵抗し、自らを守るために何とかしてその状況を打破する抜け道を見つけようとします。例えば、おしゃべり、読書、空想など、自らの欲求を満足させるためなら、あらゆることをするのです。このような性癖から離れない限り、瞑想はうまくいきません。
 また徳を積むあらゆる行いが瞑想を支えます。そのような徳は、気骨のある人間を育てます。瞑想を進めるには、骨のある人間になることが必要です。それは、背筋をしっかり伸ばすためだけでなく、しっかりした考えを持つ上で役に立つのです。

 心の世界を成長させるなら、離欲は重要な要素です。離欲とは、自分はかくかくしかじかの者である、こういう人間になりたい、何々が欲しいといった考えを手放すことなのです。
 そのような考えがエゴであり、常に「私」を主張し、間違った方向に進むのです。私たちは、「私の」家、「私の」家具、「私の」夫、「私の」妻、「私の」子ども、「私の」親戚、「私の」車、「私の」仕事、「私の」職場、「私の」友達、といった風に「私のもの」と思うことで、「私」を安心させています。それが、「私」を支えている仕組みなのです。こうしてエゴは、安定を得たような錯覚に陥ります。しかし現実には、いかなる人も所有物も永遠に存在するわけではなく、あらゆるものは常に消えつつあるのです。

 上に述べたような安定が真実のものなら、家や車は大きければ大きいほど、友人や子どもは多ければ多いほど、夫や妻も多ければ多いほど、その人は安心できるということになるでしょう。しかし、これらすべての人や物を持つと、心配ごとややっかいごとが増えるばかりです。
 一人ではなく十人の夫がいることを想像してみてください。考えるだけでうんざりします。
 安心感を得られると私たちが思い込んでいる、誤った考えがまだあります。それは、私たちが、「私が」すること、「私のために」すること、「私のもの」などで自分自身を取り囲みたがることです。私たちは自分の概念でそう思っているだけであって、実際には誰をも自分のものにすることは出来ません。人は予期していない時に死ぬし、相性の悪い人と結婚するし、他人は私たちに「さよなら」さえ言わずに去って行ったりします。人はカルマを作っているにすぎないのです。
 しかし私たちはそれらを「私のもの」と言い、本当に自分が所有していると信じています。そう信じるが早いか、私たちはすぐに必死でそれらのものにしがみつきます。それらは「私のもの」であり続けないといけないのです。こんなふうにして、自分の家族や仕事、所有物に依って「私」という概念を作り上げるのです。私たちは、単なる一人の「私」であるだけでなく、長じるにつれ、さまざまな人々、仕事、家や身の回りのあらゆるものに囲まれて、自分との強い結びつきを感じていきます。それで自分自身が大きくなったように感じるのです。
 このような、外のものに依って作られた「私」という思いを捨てることは、大変重要なステップです。人は独り、自らの足で立ってはじめて修行が実践できるのです。これは自分の家から他の人を皆追い出してしまえという意味ではありません。しかし、他の人の言ったことや考えていること、したことに頼っていて、どうやって自由を得られるというのでしょうか。このような、外のものに依って作られた「私」という思いを離れると、エゴは正常な大きさに戻り、ただ一人の「私」になり、それ以上でもそれ以下でもなくなるのです。エゴは無くなりはしませんが、扱いやすい大きさになります。一つの体、一つの心になり、多くの人々や物を所有しようとしたり、それらに頼って、「私」という思いを抱くことは無くなります。

 何かになりたいということも、たとえその何かが優秀な瞑想者であってもエゴが主張することなのです。今どうなのか、今あることに注意を払わないで、人は将来何かになりたいと思います。将来について言えることが何かありますか。言えることは何もないのです。将来は完全に白紙です。しかし今この瞬間がどうであるかについては、私たちは完璧に気づきを入れることができます。
 優秀な瞑想者や上司になりたい、有名になりたい、金持ちになりたい、慕われたいなど、今の自分以上のものになりたいと思うこともまたエゴを大きくします。何かになりたいと思うのは有益なことではありません。今どうあるかに注意を向けることこそが有益なのです。そうすれば、エゴはまた扱いやすい大きさに戻ります。私たちは今の状態に気づくことができますが、将来どうなるかに気づくことはできません。それらは今はまだ存在しないのですから。それは空想や願望にすぎません。捨ててもいい余計なものなのです。(つづく)