9月号より、2006年5月号から連載されました比丘ボーディによる法話、「縁起」を再掲載しています。今月はその第4回目です。
精神と物質(名色)――Nāma-Rūpa
「意識(識)に繰って精神と物質(名色)が生じる」
「精神と物質」は心と身体からなる生命のための用語です。再生の意識が妊娠と同時に生じる時、それは単独では発生しません。心と身体からなる生命の全体とかかわって生じ、そしてその生物もまた妊娠と同時に現れます。生命は五つの集まり(五蘊)からなります。
つまり、形態である物質的要素(色)と、感受(受)、知覚(想)、心的形成作用(行)、意識(識)の四つの心的要素です。
人間の再生の場合には、物質的要素、つまり形態とは、新しく生まれる生命の身体、つまり1つの受精卵です。一方心的要素の方は、その再生の意識の他に、感受、知覚、心的形成作用の三つの要素があります。これらの五つの集まりは互いに依存しながら死までずっと存続します。
六つの感覚器官(六処)――Salāyatana
「精神と物質(名色)に縁って六つの感覚器官(六処)が生じる」
心と身体からなる生命が成長し発展するにつれて、五つの身体の感覚器官が生じます。つまり眼、耳、鼻、舌、身です。心的器官、つまり思考の器官もまたあります。それは他の感覚の情報を調整し、思考、イメージ、概念などの心独自の対象も認識します。
六つの感覚器官は世界についての情報を集めるための手段という役割を持ちます。各々の器官はそれぞれにふさわしい種類の感覚情報を受け取ります。眼は形を、耳は音を、鼻はにおいを受け取る、といった具合です。このようにして私たちは次の連鎖に到達します。
接触(触)――Phassa
「六つの感覚器官(六処)に縁って接触(触)が生じる」
接触は、たとえば眼識が限を通して形に接触するように、感覚器官を通して感覚の対象と意識が一緒に現れることを意味します。
感受(受)-Vedanā
「接触(触)に縁って感受(受)が生じる」
感受は、心がその対象を経験する時の「感覚の音色」です。感受が生じる時に係わる器官によって、六種類の感受に分けられます。たとえば、眼の接触から生まれた感受や耳の接触から生まれた感受などです。またその「感覚の質」によっては、感受は「楽、苦、中立(不苦不楽)」の三つの型に分けられます。私たちの過去のカルマ(業)はこれらの感受を通して働き、その結果としての実を結びます。
渇愛(愛)-Tanhā
「感受(受)に縁って褐変(愛)が生じる」
この連鎖において、私たちは生存の車輪の動きの中で重要な一歩を踏み出します。私たちがこれまで述べてきた要素――意識、精神と物質、六つの感覚器官、接触、感受――はすべて過去の業の結果を表します。それらは、過去からの業、意志的な形成作用による業の成熟によって生じます。
しかし今や渇愛の発生によって、経験は過去のものから今現在働き始めた原因へと移ってきました。この原因によって、将来新しい存在が生み出されることになります。私たちが楽の感受を経験すれば、私たちはそれに執着するようになります。私たちは感受を楽しみ、喜び、それがずっと存続することを切望します。このようにして褐変が生まれます。私たちが苦の感受を経験すれば、それによって嫌悪を催し、その源を根こそぎにしたいという欲望、あるいはそこから逃げたいという欲望が生まれます。
しかし、必ずしも型どおり感受から渇愛へと至るよりほかないというわけではありません。これは非常に重要な点で、感受と渇愛の間には、存在の循環を終わらせる戦いの場になりうる空間、隙間があります。ここでの戦いによって、束縛が将来に渡り無期限に続くのか、あるいはそれが悟りと解脱に取って代わられるのかが決まります。
というのは、もし渇愛に従う代わりに、注意深く気づいていることによって感受を観察し、それをあるがままに理解するならば、私たちは渇愛が生じて将来に新しい存在を生み出すのを防ぐことができるからです。
執着(取)――Upādāna
「渇愛(愛)に縁って執着(取)が生じる」
では次の動きを見てみましょう。執着は渇愛の強化されたもので、四つの型があります。
(a) 感覚の喜びに対する執着
(b) 見解、理論、信念に対する執着
(c) しきたり、規則、儀式に対する執着
(d) 五つの集まり(五蘊)を自己と見る観念に対する執着
渇愛と執着の違いは次の例えによって説明されています。「渇愛とは泥棒が盗もうとしている対象をつかむために手を伸ばしているようなものであり、執着とはその対象をつかんで自分のものにしているようなものである」
存在(有)――Bhava
「執着(取)に縁って生存(有)が生じる」
Bhavaは存在における業の蓄積という側面です。つまり、私たちが行勤して業(カルマ)を蓄積し、さらに意志的な形成作用(行)を発生させ、それを強め、意識の流れの中に蓄積していく、そうした人生の側面のことです。これらの業が蓄積されると、死の後に新しい存在がもたらされます。
老死――Jarā-Maraṇa
「誕生に縁って老、死が生ずる」
未来において生を受けることにより、私たちは老と死、そして、悲しみ、悲嘆、痛み、嘆き、絶望という避けられない代価を支払うことになります。