(1)若い頃、毎日、宇宙と一体になる瞑想に耽っていた。
宇宙の全てと一つになると、あらゆるものが自分のものという印象も生じた。
当然、地球も日本もこの東京の界隈も私であり、私のものだという錯覚を楽しんだ。
金はなかったが富裕感に満たされ、変哲もない日々が、妄想で輝いていた……。
(2)災害に見舞われたり、大きな苦難が訪れると、ハッと我に返り、ただ普通に暮らせていることのありがたさが身に沁みる。
夢や目標に向かっていく努力も、向上心も、悪いことではない。
だが、淡々と過ぎていく今日が、今の瞬間が、ツマラナイ駄目なものと見なされていないか……。
サティを!
(3)物作りも芸術もどんな創造や創作も、その技が極められていった果てには、ただ創造されたものだけが存在し、表現者のエゴが感じられない神業のような印象になるだろう。
「創造している私」「表現しているこの自分」というエゴ妄想が微塵も入らないからだろう。
「サティを入れている私」という感覚を微かに持ちながら瞑想している人には、頂門の一針である。
(4)日々の瞑想とダンマの学びによって、エゴが納得すれば、表層の心は変わるだろう。
ディープな瞑想や心底から揺さぶられる衝撃の体験があると、第2層の心も変わり、土壇場での反応にも矛盾がなくなってくる。
過去世から持ち越した性根のような第3層の心を、どこまで変えていけるだろうか……。
(5)下等哺乳類や鳥のように、丸ごと正確に覚えてしまう「写真記憶」の能力。
人類はそれを捨てた替わりに、記憶情報をバラバラに並列保存し、概念化したり全体から本質を抽象する能力を得た。
事実を正しく観るサティの瞑想と、ダンマに基づいた情報の編集で、人生は一変する……。
(6)経験した出来事が問題なのではない。
どのように脳内再生を繰り返すか、だ。
ムカつく言動に絞り込んだ恨み篇。
感謝のフィルターをかけてつなぎ合わせた感動篇。
断片化された記憶が編集された脳内物語……。
(7)迷えば、ブレれば、ためらえば、正と反、肯定と否定の意志を交互に、あるいはデタラメに放つことになる。
やるのかやらないのか、行くのか戻るのか、壊すのか創るのか、自分が放ったエネルギーを自分が相殺している愚かさ。
諦めれば、起きない。
願い続ければ、いつか必ずそうなる……。
(8)日暮里の路地に入った瞬間、ゴキブリを目撃した。
踏まれたのか、飛び出した体液で路面に貼りつき、虚しく手足を動かしていた。
死んでいこうとうしている命のはかなさに心が傾き、嫌悪感が微塵も生じなかった。
「目撃」→「情況の認知」→「憐れさ」と反応した心。