(承前)
歩く瞑想にしても坐る瞑想にしても、サティを入れていくと、最近はすぐに視覚的なイメージが現れてきます。歩く瞑想のほうがイメージの視覚化は明確で単純でした。目が見えないのにイメージの視覚化と聞くと、皆さんは訝しく思うかもしれませんが、私は15歳まで少し見えていました。ですから文字、色、形の視覚的経験があり、今でも記憶を呼び起こすことができます。加えて、私は共感覚(synethesia common sense)を使って周囲を認識するタイプの人らしいのです。どういうことかというと、触った感覚がそのまま色や形など視覚的なイメージとしても感覚経験されるのです。このように私流の独特な視覚的イメージ経験を日常的に備えているから、瞑想でもすぐに視覚的なイメージがサティを入れることに伴って現れてきました。
例えば歩く瞑想をしていると、足のかかとが床面から離れる触覚的感覚と同時に情景として眼前に見えてきます。足が指先からカーペットの上に下りる瞬間に、足の指の視覚的なイメージが出てきます。視覚的イメージはサティを入れることをさらに促進するようで、どんどん細かく気づき始めると、どうにもこうにも足を動かせなくなってしまったこともありました。ラベリングしていたらどんどんと細かくラベリング対象に気づき続けてしまい、足の動きの気づきにラベリングが追いつかないのです。ついに、気づいたことを言葉にしていると動けなくなってしまいました。仕方がないので、こうなったときには、「かかと」、「柔らかい」、「徐々に足の前に」など勝手に省略してしまうしかありません。
坐る瞑想では違った視覚イメージが出てきます。坐る瞑想は気功の瞑想と似ているからかもしれませんが、理由はわかりません。腹の膨らみと縮みにサティを入れていると、色や形がふわっとイメージされてきます。いわゆる「妄想」、あるいはマインドワンダリングなのかもしれません。ですので、すぐにお腹の膨らみと凹みに意識を向け直すようにしています。
でも、色はよく現れます。テレビ画面に映し出される綺麗な球や雲の色が次々と緑、赤、オレンジなどと変わっていくこともあれば、同じ色の雲がずっと見える場合や、その雲が実は木々だったりすることもあります。不安感、恐怖感は付着していません。ですので、気分は自由なので、深く考えずに眺めるようにしています。
5 慈悲の瞑想について
最後に慈悲の瞑想について感じたことを述べたいと思います。
慈悲の瞑想を実践してみると、意識にはパワーがあるのではないかと実感されます。というのは、慈悲の瞑想をした日はその帰りに起きる出来事が違うのです。初心者講習会にしても朝カルの講座にしてもそうでした。見知らぬ人がいつも以上に優しくしてくれました。道に迷っていても、たくさんの人が声をかけてくれて道案内までしてくれるし、電車の席は譲られるし・・・。善行ばかりを受けるのです。私がいやなことは決して起こりませんでした。
慈悲の瞑想そのものが現実に良いこととして現れたのか、あるいは、慈悲の瞑想をした後の私の穏やかで平穏な気持ちが、表情や身のこなしなどに表れて、その結果周囲の人が親切にしてくれたのか原因はわかりません。でも、まさにありがたい出来事が起きたことは確かです。破壊よりも調和が宇宙の原則という趣旨のことを地橋先生がお話しされていました。私もそのご意見に大賛成です。物質の調和した状態が球だと思いますが、意識にだって調和した状態があるはずです。慈悲の瞑想はそういう意識の調和をもたらすのだと信じたいです。
良いことばかりなのですから毎日慈悲の瞑想をすればいいじゃないか、と言う声が聞こえてきそうです。はい。もっともです。でも、できていません。まだ、瞑想が習慣化していません。毎日朝起きたら歯を磨くように、瞑想を日常生活の一部にしたいところです。
6 最後に
だらだらと書いてしまいました。ヴィパッサナー瞑想に出会い、断続的にお稽古をするようになってから何が一番違うかというと、想定外の出来事、アクシデントが起きても、悲しみや怒りや恐怖で気持ちが揺り動かされても、じたばたしなくなりました。心が大波によって揺さぶられても、波立たされても、怒濤に飲み込まれなくなりました。
心が浮き足立っていると波に流されてしまいます。今は自分のどこかが地面にしっかりと根づいているように感じます。気功で言うと、上虚下実の状態です。不安や恐怖に心が飲み込まれても、怒りで身体が身震いしても、なお今ここの身体に気づきを戻せばよい、ということを身体で覚えてきたので、それだけでも安心感と自信がつきました。ヴィパッサナー瞑想の収斂にゴールはありません。これからも自分という島が波に押し流されないように、力には力で抵抗しない心構えを鍛錬していきたいと思います。
最後まで読んでくださりありがとうございました。(完)