今回は、地橋先生の御著書の中でもとりわけ重要な『ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』(春秋社)についてお話を伺えればと思います。
サマーディの力
榎本 本日は先生の御著書の中でも代表作である『ブッダの瞑想法 ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』(春秋社)についてお伺いしたいと思います。2006年の初版刊行以来、重版を重ねていて、1Day合宿に来ているAさんなどは、タイの僧院で瞑想のリトリートをしていた際に、インストラクターの言うことがわからずに、その合宿所に置いてあったこの本を手に取ったと言っていました。先生は、この本をお書きになったころは瞑想者としてどのような段階にあったのでしょうか。
地橋 私はこの世を捨てて10年以上命がけで修行してきましたから、それなりの境地に達していたのですが、私の悟りの定義からは道半ばと判断していました。悟りを完成させる道を求めているときにヴィパッサナー瞑想に出会うことになりました。
榎本 先生の悟りの定義とは、どのようなものだったのですか。
地橋 さまざま行法や宗教によって定義が異なりますが、例えば、神と一体になる神人合一の境地、宇宙や光明との一体、現象世界の根本原理である梵(ブラフマン)や道(タオ)と一つになるなど、さまざまな悟りのイメージがあります。共通するファクターを挙げれば、エゴが脱落する脱中心化、二元対立する主客の一元化、諸々の束縛からの解放、永遠性・無時間性・無限性との同化、。倫理的浄化の完成など、いろいろ浮かびますね。。
榎本 それを一つひとつおやりになっていたのですか。
地橋 まあ、そうですね。悟りのファクターと言っても、同じ状態の別表現も多いです。例えば、エゴの脱落は最も普遍的ですが、その方法論として天地一切の万物万象と一つになる。あるいはブラフマンやタオとの合一が体験されるとエゴや我執は自ずから溶解するでしょう。
榎本 どうやって合一が体験され、一体になるのでしょう。
地橋 サマーディの力によってです。<自己>と<非自己(外界・他者)>を分別している脳内ネットワークが知られていますが、サマーディの変性意識状態に入るとその機能が抑えられたり停止する可能性があります。すると主客未分の合一感覚が生々しく体験されるし、自他一如の実感が得られるでしょう。
これは有名な話ですが、ジル・テイラー博士が脳卒中で左脳の頭頂連合野と言語野のあたりが機能不全に陥ったとき、外界との融合感覚を体験し、それを<ニルヴァーナ感覚>と呼んでいました。正しい仏教用語の使い方ではありませんが、自己と非自己の境界が失われた感覚は悟り体験と酷似してくることを示唆しているでしょう。
榎本 サマーディの対象が絶対的な神やブラフマンやタオになれば、究極的な存在と合一したという内的体験がなされる。そして、サマーディに入った主体と瞑想対象の客体が溶解してしまえば、エゴの脱同一化が達成されるというわけですね。
地橋 そのとおりです。サマーディ状態に入れば圧倒的な静けさに領されるし、光や神仏と合一し得た感動や恍惚感が伴うでしょう。崇高で無限なるものと融合しているときに我執や煩悩反応が起きようはずもありません。
親子丼
榎本 サマーディが完成し完璧に合一できたなら、それが悟りだと理解してよいのですか?。
地橋 煩悩が微塵も現れず、エゴも脱落した状態ですから悟りと言ってもよいでしょうね。ただ残念なことに、一時的なのです。サマーディは永遠に続きませんから必ず破れるときがきて、禅定から出て通常意識モードに帰還しなければなりません。
榎本 ふむ。
地橋 すると一時的に遮断されていた心の反応パターンが、それまでと同じ情報処理と反応の仕方を再開することになります。
榎本 なるほど。たしか<随眠>と言ったと思いますが、眠っていた煩悩が外界の情報に刺激されれば再起動するということですね。
地橋 そうです。ヴィパッサナー瞑想は法としての事象が瞑想対象ですが、一点集中型のサマタ瞑想は概念が対象です。それが絶対的な神やブラフマン、宇宙の無限性など、人類が創りだした最も崇高な究極概念と完全に合一するのですから悟りと錯覚してしまうのも無理からぬことでしょう。
榎本 先生も、炸裂した光明のまばゆい輝きと融け合って丸三日間、至福に酔いしれていた、と<あとがき>に書かれていますが……。
地橋 そうした体験を繰り返すと悟ったのではないかと確信する向きもいるでしょうが、これは、しょせん脳が作り出した究極のイメージと合一しているだけです。崇高なイメージも焼き芋や親子丼も、構造としては脳裏に浮かんだ概念にすぎず、ただの瞑想対象と融け合っている変性意識状態に過ぎません。
榎本 親子丼を瞑想対象に選ぶ人はいませんよ(笑)。ともあれ、特殊な変性意識の状態は必ず日常意識に戻る。もどればエゴや煩悩反応に気づかざるを得ないということですね。
地橋 そうです。私が目指していたのは永続的な煩悩滅尽で、それを達成できるのはヴィパッサナー瞑想しかなかったという流れです。
榎本 概念を対象にしたサマタ瞑想のサマーディは究極の悟りに至らない。法を対象とするヴィパッサナー瞑想ならそれが可能だと信じて、先生は『ブッダの瞑想法』を執筆していく流れになった。ここまでのところを、そうまとめておきましょうか。
出版までの経緯
榎本 『ブッダの瞑想法』を刊行したのは、ヴィパッサナー瞑想を始めて何年くらいだったのですか。
地橋 16年ぐらいですね。私は修行者の道を全うしたかったのですが、因縁の流れで瞑想を教えることになり、教え始めればテキストやマニュアルが必要になります。2002年に『ブッダのヴィパッサナー瞑想法 基本マニュアル』という本がグリーンヒルから出版され、これが春秋社『ブッダの瞑想法』第4章に吸収された形ですね。
榎本 ヴィパッサナー瞑想を教えはじめたのは、朝日カルチャーが初めてだったのですか。
地橋 いや、その前から身内のような近しい人に教えていました。自然発生的な感じですね。
榎本 それがグリーンヒルの設立につながったのだと思いますが、春秋社という出版社からこの本を出すきっかけはどのようなものだったのでしょう。
地橋 私は修行を始めた一時期、願望実現を徹底的にやり、欲しいものは全て手に入れていました。この経験によって欲望の限界を検証してからは、何も願わず、流れに任せて起きたことを受け容れていく、極めて受動的な生き方をしてきました。これを私は<全託>と称していましたが、仏教的には<無願三昧>に近いでしょうね。それで春秋社の本も、グリーンヒルで私のマネージャーのようなことをしてくれていたスタッフがすべてお膳立てをしてくれましたね。
榎本 欲しいものを全て手に入れていた⁈ 是非お聞きしたいところですが、脱線しそうなので今回は本の話に絞りましょう。
地橋 無名の私によく書かせてくれたと思いますが、すべて交渉係をしてくれたスタッフの功績です。私の人生は、修行時代も瞑想を教えてからも、周囲の人の助けがなかったら何ひとつできませんでした。本の原稿が完成してからもスタッフ達が徹底的に読み込んで、批判されそうな表現があれば修正をうながし、みんなの熱意が結集して世に送り出されていった感じですね。
榎本 映画なども、有形無形の諸々の力が結集していますから、監督はスピーチのときにはまず関係者への感謝を述べることがほぼならわしになっています。
地橋 ダンマの仕事というものは特に、善業の集積によってなされていきます。諸々の業の因果が帰結していく縁起の構造に織り込まれた人たちが、因縁の流れでグリーンヒルに集合して瞑想をし、『ブッダの瞑想法』がそのテキストになっていったのだろうと理解しています。
榎本 縁起の構造を深堀りしていけば感謝しかない、と殊勝な気持ちになりますね。
地橋 (笑)。思いがけず、いいこと言うじゃないですか。
榎本 ええ、僕だって、たとえば慈悲の瞑想をするとそういう気持ちになることがあるんですよ。(笑)
独特な構成
榎本 初心者講習会に参加する前に、スタッフの方からメールが送られてきて、準備としてこの本を読んでおくようにという一文が添えられていました。1Day合宿に参加するときもそうです。けれど、読んでみると、ちょっと意外な書籍だったので驚きました。
地橋 どういうところがですか。
榎本 まず、内容の前に構成が独特ですよね。最初に瞑想するとどのような効果が現れるかが書いてある。このコーナーで僕が<ご利益>と表現したものです。これはとてもよくわかる。ここで、やる気を出した読者に『ではやってみましょう。まずは歩きの瞑想から』という具合に速やかに実践論に移るのが普通だと思うのですが、二章と三章では抽象的な議論が展開されます。
地橋 ブッダの瞑想は技術ではありません。ダンマの理解と瞑想実践は切り離すことができません。ダンマを抜きにして技法だけ学べばよいというのは本義から脱線し、仏教が骨抜きにされていく始まりです。それで最初に強調しました。
榎本 逆に、瞑想しないでダンマの学びだけになれば、学問だけの仏教が残されることになり、先生が執筆する意味が希薄になりますしね。
地橋 そうです。ダンマと瞑想の両輪が駆動するとき、人類の叡智がピークに達する、と私は確信しています。
榎本 ブッダは非常に高度なサマタ瞑想(虚無との合一)を成し遂げた後で、それを捨てました。では、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想を決定的に分かつものはなにか? それは(虚無も含めた)概念を対象とするか、法を対象とするか、だと説明されています。これは本質的なのでしょうが、かなり難しいことをおっしゃっていますね。このようなことがまず第二章に出てくるので、驚きました。
地橋 法と概念の仕分けは、ヴィパッサナー瞑想にも原始仏教の悟りにも決定的な、最重要ポイントです。サマタ瞑想は概念を対象にする。あらゆる煩悩も、概念増殖するプロセスから生まれてくる。これを<パパンチャ>と言います。法と概念がゴッチャになって識別できない状態が<痴(モーハ)>であり<無明>の根本なのです。
榎本 ふむ。
地橋 したがって、肝心要の、法と概念を正しく理解しないまま瞑想に着手してしまうと、ヴィパッサナー瞑想の本質が見失われることになります。後から付け足せばいいだろうというものではありません。ダンマや戒律を骨抜きにした瞑想は軍事利用にまで悪用され、凶器にもなりかねないのです。すべては、法と概念が明確に識別されないことに端を発しています。
榎本 『月刊サティ!』の巻頭トークで、そのようなマインドフルネス瞑想に対してかなり厳しい批判をなさっていますが、この本では、ヴィパッサナー瞑想とは何かを語るに際して、サマタ瞑想の限界を述べるところからはじめられています。サマタ瞑想では、真の意味での、苦からの解放は成し遂げられないということが書いてある。でも、そもそもサマタ瞑想をやったことのある読者がどれだけいるのでしょう? 僕など最初にトライしようとしていた瞑想がヴィパッサナー瞑想だったのでびっくりしました。
地橋 それは時代が違いますね。今でこそマインドフルネスの瞑想が流行していますが、それ以前の瞑想は、変な人がやっている胡散臭いものという色眼鏡で見られる傾向がありました。逆に、当時瞑想する人の多くがサマタ瞑想の経験者でした。サマタ瞑想をくり返しても埒が明かないと感じていた瞑想者が新しい技法に活路を見出すような雰囲気がありました。
榎本 初めて瞑想するような人は来なかったのですか?。
地橋 少数派ですが、時代の流れを敏感に嗅ぎつけてトライする人たちもいました。有能な人たちが多かったですね。【瞑想の新世紀 今、ここに 始まる・・・・・】というのが初版本の帯の文言でしたが、今にして思えば、その後のマインドフルネス瞑想の流行を予言していたかのような気もします。その後、重版されていく途中で帯の文言が【今こそ、マインドフルネス瞑想の源流へ!】と変更されました。これも時代の流れを反映しているでしょうね。
(この項続く。以下次号)
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