第1回の要約
◆仏教は、しばしば科学的・哲学的な宗教として紹介されるが、その根底には輪廻転生という、現代科学では扱うことのできない霊的な世界観がある。
科学とは、万人に開かれ、誰にでも検証でき、再現性があり、反証可能な知として整理されるが、一方、霊的世界は、特殊な知覚能力を持つ人だけが体験できるもので、誰もが検証できるものではない。科学の対象になりにくい所以だが、しかしブラックホールも湯川秀樹の中間子もヒッグス粒子も、実験で確認されるまでは仮説にすぎなかった。まだ科学で証明されていないという理由だけで、霊的存在そのものを否定することはできないだろう。
輪廻を否定する和辻哲郎などの説は、パーリ原典や十二縁起の理解から見れば誤解である。原始仏教でいう輪廻とは、「業と無明による縁起構造が一瞬一瞬接続するプロセス」であって、永遠不変の自己(アートマン)が生まれ変わることではない。
最初期の仏教教団は阿羅漢を中心に構成され、多くの修行者が超感覚的知覚(神通力)を備えていたことが知られている。彼らにとって神々や霊的存在は、現実に視認できる存在だった可能性がある。一般の人に見えないからといって、「妄想」「非科学」と決めつけることは、人間の知覚能力の多様性を見落としているのではないか。
とはいえ、霊示や神示を絶対視する霊能者や教祖も疑問視される。重要なのは、それが神や霊から与えられたものかどうかではない。メッセージの内容がダンマ(真理)にかなっているかどうかだけが判断基準である。
神も霊も輪廻の中にいる存在であり、愚かな者は霊界でも愚かなままであり、高い境地にある存在は優れた教えを伝えるだろうが、ただそれだけのことにすぎない。大切なのは、啓示の由来を問題にすることではなく、その内容を常識とダンマに照らして絶えず検証する姿勢である。という結論で、第2回へと話は続いていく。
神霊の実在性
榎本 内容がダンマに即した高度なものであれば、霊示や神示の是非は問わないということですが、統合失調症患者の幻聴も非常にリアルで、外来の他者の声と区別がつかないようですね。
地橋 現在の神経科学では、脳内妄想なのか、外来信号の受信なのかは区別する方法がありません。脳内誤作動であれ、外来のメッセージであれ、認知される瞬間は脳神経細胞の発火に帰着するからです。
おそらく統合失調症患者の中には、外来の霊的メッセージを受信している者がいるかもしれない。また、預言者やシャーマンの中には、脳内情報の混乱を誤解し錯覚した者がいるかもしれません。
榎本 ブッダは霊示や神示の「外来性」を保証するものについてどのように言われてるのでしょうか。
地橋 『サンガーラヴァ経』の中で、「世の中に神々というものは、果たして存在するのでしょうか?」と訊かれ、ブッダはこう答えています。「世の中に神々がいるということは、私にとって、最初から直接的な経験によって完全に分かりきっていることなのだ」と。
榎本 外在する、と断言されているわけですね。
地橋 そうです。これは、ブッダに限りません。『涅槃経』では、ブッダの遺体を荼毘に付す薪に、なぜか火を点けることができません。そこで天眼通第一で名高い十大弟子のアヌルッダ尊者に理由を訊ねます。すると、神霊たちの意向と異なっているので火が点かないのだと判明します。ブッダの後継者になるマハー・カッサパ尊者が500人の修行僧を引き連れてクシナーラに向かっている。到着し、ブッダの遺体に礼拝するまで火葬の薪は燃えないだろう、というのです。
榎本 ふむ。
地橋 ちなみに、アヌルッダ尊者は出家後に盲目になりましたが、神霊を視認する能力に関しては第一でした。また、ブッダが亡くなる直前、最期の禅定に入り、サマーディの究極である「滅尽定(想受滅)」に入定されたとき、涅槃に入ったとアーナンダが誤解します。「想(知覚)」も「受(感受)」も絶え果てた禅定というのは、生きている死体のようなものですから、アーナンダが誤解するのも無理からぬところです。しかしアヌルッダ尊者は、天眼通の能力で事実を正確に見抜いて、アーナンダの誤解を正すのです。
榎本 なるほど。霊的な存在を視認し、禅定と涅槃の微妙な差異を識別しているということですね。しかしブッダの直弟子たちはスーパーエリートが多すぎて、現代のわれわれとは次元が異なりますね。
地橋 最初期の阿羅漢たちは、六神通(①神足通・②天耳通・③他心通・④宿命通・⑤天眼通・⑥漏神通)とセットで悟りを開いていました。われわれはサマーディに入ることすら難儀しているのに、当時はサマーディの究極とも言うべき神通力を得て解脱していた方が多数いたのです。
榎本 霊的存在の実在性は、スーパーエリート達には再現性のある自明なことであっても、凡夫の共通感覚では判別できないということですね。
地橋 そんなのある訳がない、と真っ向から否定する人がいますが、存在しないことの証明は難しく、いわゆる「悪魔の証明」になるので断定するのは勇み足でしょう。
霊的干渉
榎本 この際だから確認させていただきたいのですが、先生は霊示や神示から修行の道に入られたのですか。
地橋 ブッダは、霊的なことはアクセスできる者同士で話せ、と明確におっしゃっているので、答えづらいのですが、まあ、そういうことになりますか。…夜中に水をかぶって経を読む、というスタートでしたから、異界の存在からの干渉を感知してしまったというのが始まりですね。
榎本 つまり、異界、スピリチュアルな世界というものが実在すると感じられていたのですね。失礼ながら、ブッダのような神通力で検証されてないとしたら、何をもって実在と判断したのですか。ご自分の潜在意識の情報と混同しているという疑いは持たなかったのですか。
地橋 2つの理由から、外来の霊的干渉だと思いました。一つは、耳元で鼓膜が振動するような物理的印象を伴って聞こえたことです。『そんな修行は止めろ』といった囁き声の生々しさがあまりにもリアルに感じられたこと。
二つめは、その霊示は私自身の脳内から浮上したものではあり得ないという確信です。私の人生の最大のターニングポイントで、揺るぎない心底からの決意を固めて修行の道に入った私に、修行を放棄するなどという発想は微塵もなかったからです。「修行を止めろ」という言葉が内部から生じる背景はゼロでした。
榎本 なるほど。同じような体験は、以前からも?
地橋 皆無ですね。修行を始めたこのときだけで、一時的な経験です。
榎本 耳元で囁かれるような生々しさが、その後は変化していった、と。
地橋 そうです。このときは有無を言わさぬ強さがあったので外来性を確信しましたが、その後は伝達のニュアンスが変わりました。
榎本 どんなふうにでしょう?
地橋 情報のコンテンツが直接私の意識に照り映えるような感じです。これは主観的な印象なので人には説明しづらいのですが、瞬間的なテレパシーのような感覚で、脳にアイデアや思念が浮かぶ感覚とは一線を画しています。しかし厳密な立証も難しいので、情報の真実性(コンテンツの内容)だけを拠りどころにすべきだという結論に達したのです。
榎本 脳内に浮上した情報だろうが、外来性だろうが、ダンマに基づくか否かだけが問題だ、と。
地橋 そうです。霊示だろうが、師匠のアドバイスだろうが、読書からの情報だろうが、内容に価値があるのかクズ情報なのかだけを問えばよい。
榎本 なるほど。で、先ほどの鼓膜が振動するような霊的干渉にはどのように対処したのでしょうか。
地橋 私は基本的に独覚タイプですから、対処法をいろいろ編み出しました。恫喝して蹴散らすようなやり方や、私に関わることの無意味さを諄々と諭すように伝えたり、優しい愛念で見送ったり、いろいろやりましたが、完全無視が一番よかったですね。最もコストがかからない。(笑)
恐怖から脱け出す
榎本 恐怖感はなかったのでしょうか?
地橋 耳元で犬の喘ぐような声が生々しく聞こえたりすると一瞬の恐怖はありましたが、この世を捨て、聖なるものを目指す揺るぎない決意がありましたからね。また、闇もあれば光もありで、何ものかに護り導かれている感覚も明確だったので、心の安全基地があったことも大きいです。
榎本 実際に、恐怖に巻き込まれてしまったなどということは?
地橋 別件では、あります。
榎本 そのときは、どうされたのですか?
地橋 ここは大事なところで、恐怖感を外すやり方を知っているか否かが最重要です。ある経典に、「恐怖感を持たない者に、魔は憑け入ることができない」と書いてあります。つまり、魔は、こちらの恐怖感を依り代にして襲来し、支配しようとしているということなのです。
榎本 ふむ。向こうは恐怖心を利用してくるわけですね。それは社会生活でもありがちなことですね。
地橋 この知識があれば、恐怖感をいかに外すか、その危険回避マニュアルを備えておけばよいということになります。
榎本 例えば、どうやるのでしょう?
地橋 いかに恐怖感を外すかは、いかにして安心感が得られるかです。一瞬にして安心感に包まれるやり方を自分流に整えておけばよいのです。
榎本 心を落ち着かせる心理的技法ということですね。
地橋 そうです。大乗仏教なら、マントラや真言や念仏を唱えるのでしょうが、テーラワーダ仏教では、「護経(パリッタ)」というのがあります。
榎本 どういうものでしょうか。
地橋 「慈経」「宝経」「吉祥経」などを普段から唱えて暗記していれば、イザというときに安心感が得られます。テーラワーダ圏では、危険や恐怖を感じた瞬間にパリッタ句を反射的に唱えるようです。
あの手、この手…
榎本 先生の場合は、どんなやり方をされたのですか。
地橋 まず、どんなやり方でも、これさえあれば、という一本槍はダメです。唯一の安全装置が効かなかったときにパニックになるからです。危険回避マニュアルは、必ず複数の手段を用意しておくべきです。この手がダメなら、あの手で行く、と。
榎本 あの手この手をもう少し具体的におっしゃると?
地橋 今なら、まずサティを入れる、と言いたいところですが、当時は知りません。恐怖で総毛立つのもパニックを起こすのも、恐怖妄想に巻き込まれている状態ですから、明るいもの、善なるもの、光り輝くもの、ポジティブな概念やイメージに瞬間的に切り換えて集中するのです。当時はヨーガや大乗仏教を軸に修行していましたから、熟読していた『観音経』など効果的でした。なんせ野獣が出ようが毒蛇が出ようが、賊に襲われようが、落雷に打たれようが、観音の御名を唱えれば必ず救われるという経ですから。陀羅尼という呪句も暗記していたし、密教系の僧から授かった「オンギャクギャク、エンノウバソク、アランキャソワカ」はとっさに口を突いて出ましたね。
榎本 先生が密教にも触れられていたというのは意外ですが、その真言はどういうものですか?
地橋 修験道の開祖・役小角の真言です。当時の私は滝行などもしていましたから役行者が大好きで、日本人ナンバーワン霊能者の法力・霊験にあやかろうと崇めていました。
榎本 いろいろやっておられたんですね。
地橋 大事なポイントは、一瞬にして安心感が得られることです。鰯の頭も信心から、です。絶対に大丈夫、私は守られている!という確信があれば霊的なものなど恐るるに足りません。全ては、心より生ずる、です。
榎本 ちなみに、先生が真っ先に使っていたのは、どの手ですか?(笑)
地橋 巧いこと乗せられてますね。いいのかな、こんなにしゃべってしまって。
榎本 どうぞ、何でもお話になってください。まずかったら、後でオフレコにすればいいんですから。(笑)
地橋 私の一番得意なのは、崇高な、光り輝くイメージに、一瞬で意識のチャンネルを合わせるやつですね。マントラなどの言葉は、時間経過が伴います。唱えた直後に、安心感が得られ、恐怖感が外れるという微細な時系列があるでしょう。しかるに、イメージはほぼ時間ゼロ秒です。崇高なヒマラヤの雪嶺に陽光がキラキラと光り輝いている美しい画像が大好きでしたから、そのイメージを想起するや、一瞬にして恐怖感が雲散霧消するのです。
榎本 なるほど。そして、もしそれが効かなかったら、次の手を打つ、わけですね。真言や映像や経文など危険回避マニュアルの①がダメなら、②、②がダメなら③と、必ず引き出しのどこかで安心感が得られるという重層的な対処法を完備しておくということですね。
地橋 そのとおりです。霊が存在しようがしまいが、問題は恐怖感を外す技術を備えておくことです。今なら、サティがダメなら、三帰依、三帰依がダメなら慈悲……と、個人的な安全装置を複数用意しておくことです。
榎本 瞑想中におかしくなったときなんかにも活用できそうですね。

ブッダの検証
地橋 ブッダの方法があまりにもヴィパッサナー的なのに感動したことがあります。悟りを開いたブッダが最初に伝道しようとしたのは五比丘ではなく、修行時代に「無所有処定(虚無を対象にした禅定)」を指導してくれた先生、アーラーラ・カーラーマでした。彼なら難解なダンマでも速やかに理解するだろうと考えたとき、ある神霊が「アーラーラ・カーラーマが死んでから7日になります」とブッダに伝えてきたのです。普通は、ああ、そうだったか、とその神示を鵜呑みにするでしょうが、ブッダは違います。自身の超感覚的知覚(天眼通)を使って、死後7日経つと確認しているのです。神霊のメッセージが明確であっても、伝聞は伝聞としてそのまま鵜呑みにせず、自ら検証しているのです。
榎本 ほお。
地橋 次にブッダは、サマタ瞑想の究極「非想非非想処定」の師だったウッダカ・ラーマプッタに伝道しようとする。すると再び神霊が「ウッダカ・ラーマプッタは昨夜死にました」と告げ、ブッダもまた自身の超感覚的知覚で、その死を検証しているのです。ものすごく感動しましたね。これぞヴィパッサナーの真骨頂だと思いました。自らの目で見、自らの直接知覚で確かめたものを拠りどころにせよと説かれた方にふさわしい実証的精神だと思いました。
榎本 手法は超感覚的ですが、仏教の科学性に通じてもいるし、霊的存在のリアル感もあるということでしょうか。
地橋 自分自身が現実を目の当たりにしていても、頭に妄想が充満していれば、真実が見えなくなるのですから、たとえ信頼できる筋であっても、伝聞を鵜呑みにしてはならないのです。権威のある存在の言葉だから信じる、というのはブッダの教えに反します。
榎本 と、ブッダがおっしゃってるのですか?
地橋 ええ。ブッダは「私の言葉を信じるな」と言う方です。黄金を火で熱したり、切断したり、試金石で純度を量ったりして本物と認めるように、「比丘たちよ、そのように、私の言葉も、私への敬意によってではなく、よく検証したうえで受け入れるべきである」と説いています。これが「あるがままに真実を観る」瞑想を教えた方の教えです。
カーラーマ経
地橋 さらに『カーラーマ経』では、経典に書いてあろうが、師匠の言葉だろうが、理屈や理論に合っているからといって信じてはならない。自分の目で見、自分の手で確認し、検証せよ。それが悪であり苦しみをもたらすものか、善であり利益と幸福をもたらすものか、を自ら正しく理解して受け入れ、行うべきである、と言ってますね。
榎本 うーん、すこしわかりにくいですね。
地橋 ちょっと、読んでみましょうか。「カーラーマたちよ、伝聞によって、信じてはならない。伝統だからといって信じてはならない。世間で語り継がれているからといって信じてはならない。経典に書かれているからといって、信じてはならない。論理や推論だけで、信じてはならない。自分の見解に合うからといって、信じてはならない。権威者の言葉だからといって、信じてはならない。『この沙門はわれわれの師である』と考えて、信じてはならない。
しかし、カーラーマたちよ、自らよく観察し、これらのことが善であり、非難されず、賢者たちが賞讃するものであり、行なうと利益と幸福をもたらすと、自分で理解したならば、そのとき、それらを受け入れて行わなければならない」
榎本 それは、衝撃的な言葉ですが、逆に突き放された気持ちにもなりますね。
地橋 私が、ヴィパッサナー瞑想の最初に、法と概念の仕分けを強調する背景には、ブッダのこの言葉があります。直接知覚によって、純粋に、あるがままの、法としての事実を確認し、拠りどころにしていくということです。
榎本 そのようなブッダが視認した神霊や悪魔がリアルな表現で経典に語られているのに、煩悩や心理的なものの象徴だというのは無理筋だということですね。
地橋 ブッダの時代の最初期の阿羅漢たちの多くは、三明六通という神通力を得て解脱していました。煩悩の滅尽を知る漏神通と、過去世の輪廻転生を知る宿命明と、天眼通が特に重要なので三明と呼ばれます。三番目の天眼通とは、神霊や鬼霊、人間、畜生などの衆生が、どこに生まれ、どう滅していくか、その行方を見る能力です。つまり、ブッダの悟りの修行を完成し解脱した方々の多くは、輪廻転生と霊的存在の視認と、衆生の因果と業報の構造を目の当たりにしていたということです。ということで、初期仏教の世界観では、霊的存在は当然の前提として語られていたと考えてよいでしょう。
榎本 ありがとうございました。瞑想修行は、がんばります。(笑)
(完)
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