父の介護
よくわからないままとりあえず瞑想を続け、サティを入れながら、要介護の状態になっている父を見守りました。わたしが5歳の時に救急車で運ばれ、「心臓神経症(当時、鬱病などの精神疾患には人格的に問題があるという偏見があり、このような病名でぼやかすことはよくあったようです)」と診断されて入院を繰り返した父は、それまではやさしかったのに、怒鳴ったり、薬の副作用か廃人のように昼から寝ていたり、おびえたように夜中に突然叫んだりして、別人のようになりました。とても怖かったのですが、遠く離れた父の実家の事情も絡んでおり、子供には説明がなかったのです。
成長するにしたがって、父には知的障害者の兄が二人いて後見人となって彼らの生活や財産を守っていること、祖父は父が10歳ごろに亡くなり後継ぎとして育てられてきたこと、父親が病死して障害者が複数いる家であり戦中戦後はかなり差別されたこと、現在は父の姉婿が家を継いでいることなどが分かりましたが、詳しい事情や経過は知りませんでした。私が高校生になると、両親特に父親と兄は激しくけんかを繰り返すようになり、現在に至るまで折り合えないのでした。
わたしにとって、父は優しく知性的なところもありましたが、偏屈で人間不信なところがあり、怒りのスイッチがどこにあるか分からず、よく理解できない人間でもありました。しかし、一緒に母を看取ってからは「同志」のような絆ができ、それからはどんな父も受け入れて理解するよう努めてきました。「現在の父」はずっと見てきましたが、介護の過程で、そもそも昔家族に起こっていた出来事さえよく知らなかったことに気づきました。母も、わたしが仕事の忙しさにかまけて改めて昔のことを聞かないうちに、既に亡くなっていました。
確執と和解
兄とわたしも、わだかまりがありました。母を自宅で看取ったのは2009年。今でこそ在宅医療・看護は普及していますが、当時はこの地域では癌の人を自宅で看取るのは非常識に近い感覚があり、実際訪問診療や看護も受けてくださるところはありませんでした。3人の子育てで必死になっていた兄は同意しませんでした。しかし、母はいろんな事情が重なって積極的治療をまったく行えずに末期の状態となっており、「入院したくない。家に居たい」と強く望む母の願いを、わたしはなんとかかなえたかったのです。兄と決別する覚悟で勤務を続けながら父と二人体制で自宅での看取りを敢行しました。
母の死後、兄は「あの時、どうして看てやらなかったのかと今でも悔やむ」と言っていました。「だって、あの状況だったから仕方ないよ。介護休暇だってあるのも知らなかったし…『もう、そんなこと思わなくていい』って、きっと母さんも言っているって」というような話をしたことがありますが、実は心の奥底では母の最期の希望をかなえることに協力せず、わたしたちと激しく言い合った兄を許せてはいませんでした。だって、同じ町内に住んで、3人も孫守りをしてもらいながら、親と喧嘩ばかりしてきたじゃない。あたしよりよっぽど両親に心配をかけてきたくせに!そして両親の世話になってたくせに!アンタがケンカした後の両親の心と身体のケア(主に愚痴聞きと、得意技である指圧治療)は、ほとんどわたしがしてたのよ(→怒り!)。 父の介護くらいは手伝ってもらわなきゃね。医療職で独身、子なしだからって、わたしだけに「お任せ」になんてさせるもんか。そのためにも今のところは良好な関係を保っておくべし(→計算高く、腹黒い女の心…)。
とまあ、心の中はたくさんの怒りやわだかまり、不安を抱えていました。それでも慈悲の瞑想を続け、介護の最中もサティを入れながら、見守りをつづけました。結果的には、父はよいヘルパーさんやケアマネージャーさんに恵まれ、望みどおり最後まで自宅で過ごし、食べられるだけ好きなものを食べ、最期の瞬間は家族が全員集合し、一言ずつ声をかけて見送り、ひとすじの涙を流して穏やかな死に顔で旅立ちました。まさに大往生。2023年秋のことでした。自分としては父の病気中に孤軍奮闘してわたしたちを育ててくれた母が若くして苦しみながら死に、母より9歳も年上の病弱だった父が、長生きして大往生するのは何だか釈然としませんでしたが、とにもかくにも恵まれていました。
介護の最中は兄とぶつかり合いながらも昔の話をすることも多く、「あれ?あの時そちらもそう思ってたの?」「あれは、そういうことだったのか…」などと昔のことを話して相互理解が深まり、なんだか勘違いしていることも多かったり、兄もつらかったんだな、と共感できたり。兄もまた同じように感じているようで、結果、心から許しあい、通じ合える仲になれたのは意外なことでした。
伴侶との別れ
父は無事に見送ることができましたが、それから間もなくパートナーとは別れることになりました。わたしは瞑想のおかげでうまく断酒できていましたが、パートナーはアルコールから完全に抜けられていない状態で、定期的に飲酒を繰り返していました。コロナ禍も終わりに近づいてきたし、同性愛者は都会の方が生きやすい。彼女はもともと大阪の人で、同性愛者としての自分を隠さずにつきあえるコミュニティや結婚して独立した娘さんもいるから、その方がいいだろうな…わたしが彼女を束縛して、依存症にした部分もあるだろうと思いいたりました。
アルコール依存の場合、enabler(イネーブラー)という言葉があります。「酒を飲むのはやめろ」と言いながら、酔っぱらったときに面倒をみたり、本人の代わりにアルコール瓶を片付けたりする家族…「アルコール依存であり続けることを実質的には支えている人」をこういうのです。今回、わたしはまさにイネーブラーであることに気づきました。衝撃でした…。支える人がいて、依存であっても生活が成り立つから、「酒を飲み続けている場合ではない。何とかしなくてはいけない」ということを本人が自覚しにくいのです。さらに、依存症は「耐えられないストレスがあるために、それに耐えて何とかやっていくために依存する」という側面があるようです。わたしは彼女に家事をしてもらい精神的に支えてもらい、かわりに経済的には彼女を支えてアルコールを飲む生活を支えていたのです。このような共依存の状態から脱して、別れるほうが本人のためになるということ…。
先生には「別れるにしても、最後まで相手を思いやった対応にしなさい。共に過ごして、人生に彩りを添えてくださったお方ではないですか」と言っていただき、慈悲の瞑想を必死に毎日やって、アルコールを止めないことへの恨みや、彼女がいなくなることへの不安をなんとか静め、2024年の8月、新しい門出を祝うつもりで別れました。
(続く)
私の瞑想体験(旧「Web会だより」 改め)