🌄要約①
★この文章は、仏教の因縁論における「無間縁」と「等無間縁」を説明したものです。両者は心の働きが連続して生じる仕組みを示していますが、意味の違いはごくわずかです。注釈によれば、聞き手が理解しやすいように二つに分けて説かれたとされています。

無間縁とは、前の心が消滅したことによって、必ず次の心が生じる条件となることです。心は一つの実体として続いているのではなく、一瞬ごとに生じては滅し、その直後に次の心が生じています。
例えば何かを見たときには、まず対象を見て知る心が生じ、次に対象を受け止める心、調べる心、判断する心、反応する心というように、一連の心が順番に現れます。
前の心が消えなければ次の心は生じることができません。この関係を無間縁と呼びます。満杯のコップに新しい水を入れるためには古い水を捨てなければならないのと同じです。

一方、等無間縁とは、前の心と次の心の間にまったく隙間がなく連続している性質を指します。見て知る心が滅した直後に対象を受け止める心が生じ、その二つの間には空白がありません。心の流れはあまりにも速いため、私たちは一つの心が持続しているように感じますが、実際には無数の心が連続して生滅しています。この「間断のなさ」が等無間縁です。

文中では来客の例も用いられています。まず人影を認識し、次にその人物が誰かを調べ、家に入れるか判断し、最後に会話を始めるというように、一つの働きが終わることで次の働きが生じます。心の働きも同様に連鎖しています。
さらに、生と死の関係も例として示されています。死の心が生じなければ新たな生命の始まりは起こりません。死が次の生の条件となる点が無間縁であり、死と新たな生の間に空白がなく連続する点が等無間縁です。

このような連続的な心の働きは、種子が芽吹き季節が巡るのと同じく自然の法則であり、誰かが作り出しているものではありません。前の心が消えると次の心が生じるという因果の流れによって、私たちは一つの人生を生きているように感じています。
最後に著者は、この法則を理解した上で常に気づきを保ち、善い心を育てるよう勧めています。そして洞察瞑想によって心身の無常を見抜き、再び新たな生が生じない究極の安らぎを目指すことが仏教修行の目的であると説いています。

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🌄要約②
★この文章は、仏教アビダンマにおける「無間縁」と「等無間縁」という二つの縁起の型を、心の生滅の連続という観点から平易に説明したものです。両者の意味の差はごくわずかであり、主として聞き手の理解を助けるために区別されて説かれたとされています。


●無間縁の基本的意味
無間縁とは、前の心が滅したことによって、それに続く次の心が必ず生起できるようになるという条件関係を指します。
心は一つの同一な実体として持続しているのではなく、瞬間ごとに生じては消え、その直後に次の瞬間の心が生じ続けていると説かれます。
何かを「見る」体験の背後では、見る心、受け止める心、調べる心、決定する心、対象を味わい反応する心など、性質の異なる心が一定の順序で現れては滅しています。
前の心がなお存続しているあいだは次の心は起こりえないため、「前の心の滅」が「次の心の生起」の条件となる、この関係が無間縁と説明されます。コップの水を入れ替えるには、古い水を捨てて空間をつくる必要があるという譬えが用いられています。


●心のプロセスの具体例
見る心の系列として、まず対象を見て知る心があり、その滅失と同時に対象を受け止める心が生じ、さらにそれが滅すると対象を吟味・推度する心、次いで対象を確定する心が生じると説明されます。
確定の後には、対象に対して善悪などをもって強く反応し「味わう」速行の心が高速で続き、その後に対象を保ち、やがて基底状態に戻る心が順次生じては滅していきます。これらはすべて、ある一つの心が滅することによって次の心が条件づけられ、途切れなく相続していく心の法則として提示されています。



●等無間縁の意味
等無間縁は、こうした連続の中で、前の心と次の心の間にいかなる空白もなく、ぴったりと連続して生じるという側面を強調した概念です。
見て知る心が滅した直後に、その対象を受け止める心がただちに続き、その二つの間には間隙がないと説明されます。
連続する二つの心がまるで一体のように感じられるほどに速く連鎖しているため、私たちは「一つの同じ心が続いている」と錯覚するが、実際には無数の心が等無間縁にもとづいて生滅を繰り返していると説かれます。


●生死における二つの縁
文章は心の一瞬の流れだけでなく、生と死の関係にも無間縁・等無間縁を適用します。
死ぬとは死の心が生じて滅することであり、新たな生の始まりとは結生の心が生じることだと説明されます。
現在の生において死の心がまだ生じていないあいだは、新たな生の結生心は決して生じません。
死の心の生滅が次の生の結生心を可能にするという点で無間縁であり、死と次の生が時間的な空白なく連続して起こるという点で等無間縁と説明されます。
このように、一つの生涯の終わりと次の生涯の始まりも、心の相続という法則の中で理解されています。


●自然法則としての心の相続
心の連続は、種子が芽吹き、季節が巡るといった自然現象と同様に、一定の法則にしたがうものとされています。
種子には種子の法則、季節には季節の法則があるように、心と心所にも「この心が滅したなら、次にこの心が生じる」という固有の法則性があり、それが心の相続を成り立たせています。
それは誰かが創造したものではなく、心という名法そのものに備わった働きであり、その特別な力によって、私たちは一つの連続した人生を生きているかのように感じていると説かれます。


●修行への勧め
最後に著者は、この無間縁・等無間縁の理解を実践と結びつけます。
今生の死の心に続いてどのような結生心が起こるかは、ふだんどのような心を培って生きるかに深く関わるため、日常生活において気づきを絶やさず、善い心を育てよと勧めます。
さらに、洞察瞑想によって心身の無常・無我・苦を見抜き、二度と新たな結生が起こらない境地、すなわち一切の苦しみから離れた究極の寂静を目指すことが仏教修行の究極の目的であると結び、読者に真剣な実践への決意を促しています。


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💎本文


【初学者でもよくわかる二十四縁起】第7回 モートゥ(マンダレー在住)著 影山幸雄訳

4)アナンタラパッチャヨー(無間縁)
5)サマナンタラパッチャヨー(等無間縁)


アナンタラパッチャヨー(無間縁):前のチッタ(心)が消え去ったら、例外なく次のチッタ(心)が生じるように作用する法
サマナンタラパッチャヨー(等無間縁):前のチッタ(が)消え去ると間断なく次のチッタ(心)が生じるように作用する法


●パタマシュエチン大セヤードーのコメント
アナンタラパッチャヨー(無間縁)とサマナンタラパッチャヨー(等無間縁)については一つの章にまとめて説明する方がより分かりやすいと思いますのでそうします。
アナンタラパッチャヨー(無間縁)とサマナンタラパッチャヨー(等無間縁)の深い意味については大きく異なるところはありません。この法を聞いている神々の心の状況に合わせてアナンタラパッチャヨー(無間縁)とサマナンタラパッチャヨー(等無間縁)を分けて説明した方が理解しやすいだろうという配慮から二つに分けて説いたとパタマシュエチン大セヤードーがコメントを書かれています。
この二つはアビダンマ(論蔵)についての基本的な知識がないと理解するのは難しいです。初心者の皆さんが理解できるように頑張って説明します。集中して最後まで読んで下さい。そうすれば理解できるだろうと思います。


●アナンタラパッチャヨー(無間縁)というのは

アナンタラパッチャヨー(無間縁)は前のチッタ(心)が消え去ったら、例外なく次のチッタ(心)が生じるように作用する法とされています。
アナンタラパッチャヨー(無間縁)の意味が分かりやすくなるように例をあげて説明します。まずは難しい例えを説明します。それが終わったあとに簡単な例を用いてもう一度説明します。ですから、最初の例を読んで理解できなくても、読むのを止めないで最後まで続けて読んで下さい。最後まで続けて読めば分かると思います。


●チャックヴィンニャーナ(眼識)と言うチッタ(心)が生じる様子

チャックパサーダ(眼浄色)と呼ばれる眼が良好で、眼で見ることができる形と言うアーランマナ(対象)もあり、その形と言うアーランマナ(対象)が見えるようにする光も十分にあり、「これは何だ」と注意を向け、黄色だ、赤だ、お坊さんだ、人間だ、交通事故だ、など形と言う対象を見るチッタ(心)が生じます。文献にはチャックヴィンニャーナ(眼識)と言うチッタ(心)と書かれています。チャックヴィンニャーナ(眼識)と言うチッタ(心)とは対象を見て知る心のことです。映画に出て来る妖怪や幽霊(ミャンマー語でウィーニンと表現されています)のことではありません。ヴィンニャーナ(識)はパーリ語由来の言葉です。チャックヴィンニャーナ(眼識)はアーランマナ(対象)を目で見て知ることができる性質を指しています。


●サンパティッチャナチッタ(対象を受け止める心:領受心)

ルーパーランマナ(形と言う対象)と、チャックパサーダ(眼浄色)と呼ばれる眼が出会うと、見て知るチッタ(心)、チャックヴィンニャーナ(眼識)が生じます。見て知るチッタ(心)であるチャックヴィンニャーナ(眼識)は生じるとすぐに消え去ります。見て知るチッタ(心)チャックヴィンニャーナ(眼識)が消え去ると同時に、ルーパーランマナ(形と言う対象)を受け止めるチッタ(心)であるサンパティッチャナチッタ(領受心)が生じます。


●サンティーラナチッタ(対象を調べる心:推度心)

対象を受け止める心であるサンパティッチャナチッタ(領受心)が消え去ると同時に、サンティーラナチッタ(対象を調べる心、推度心)が生じます。


●ヴォッタッババナチッタ(対象を決定する心:確定心)

対象を受け止める心であるサンパティッチャナチッタ(領受心)が消え去ると同時にヴォッタッパナチッタ(対象を決定する心:確定心)が生じます。


●ジャヴァナチッタ(対象を味わう心:速行心)

ヴォッタッバナチッタ(対象を決定する心:確定心)もまた消え去ります。ヴォッタッバナチッタ(対象を決定する心:確定心)が消え去ると同時に、猛スピードでアーランマナ(対象)を味わう心、ジャヴァナチッタ(速行心)が生じます。
対象を味わうジャヴァナチッタ(速行心)が消え去ると同時にタダーランマナ(被所縁)というチッタ(心)、そしてバヴァンガチッタ(有分心)が一つずつ連続して生じます。これがチッタニヤーマ(心の法則、因果律)です。誰であってもチッタ(心)はこの法則に従って生じます。人間であれ、動物であれチッタ(心)はこのように生じます。異なるのは善か悪かだけです。


●ニヤーマ(法則)

木は誰かが超能力で作り出したものではありません。天候に従って実をつけます。時期が来たら実をつけます。花が咲く時期になったら花が咲きます。葉が落ちる時期になったら葉を落とします。このような法則をビージャニヤーマ(種子の法則)と呼びます。雨季が終わると乾期が、乾期が終わると暑季がやってきます。これはウトゥニヤーマ(季節の法則)です。チッタ(心)、チェータスィカ(心所:心と同時に生じ、心と同じ対象を取り、心を修飾し、心と同時に滅する名法)などの名法も、このチッタ(心)が滅したらこのチッタ(心が)生じなければならないという性質、チッタニヤーマ(心の法則)に基づいて、それぞれが役目を果たし、それを繰り返します。誰かが作り出したものではありません。チッタ(心)の性質に従って生滅を繰り返します。チッタニヤーマ(心の法則)と言うのはこのような性質を示しています。


●見て知るチッタ(心)が滅しなければ

見て知るチッタ(心)が生じます。この見て知るチッタ(心)が消え去らないと、形と言う対象を受けとめる新たなチッタ(心)、サンパティッチャナチッタ(対象を受け止める心:領受心)が生じることができません。ですから、見て知るチッタ(心)が滅することは、形と言う対象を受け止めるサンパティッチャナチッタ(領受心)が生じるための原因となります。サンパティッチャナチッタ(領受心)が生じるように援助します。アナンタラパッチャヨー(無間縁)はこのような性質のことです。これがアナンタラパッチャヨー(無間縁)の意味です。
コップの中に水が満杯に入っているとします。既に入っているこの古い水を捨てなければ新しい水を入れることはできません。チッタ(心)が生じて滅し新たなチッタ(心)が生じるのもこの性質によるものです。


●一つが終わることで次の一つが生じる

玄関を叩く音がしたので扉を開けてみます。人が一人(形と言う対象)見えます。人が一人いるだけだ、とチッタ(心)の中で受け入れます。次いで、悪人なのか、善人なのか、見知らぬ他人なのか、親しくしている知人なのか調べます。何の用ですかと尋ね、家に招き入れるべきか、入れないでおくべきか決めます。決めたら、「どうぞ、こちらへ」「中にお入りください」と家に招き入れることを認めます。家の中に招き入れておしゃべりを始めます。
このように一つのチッタ(心)が消えると次のチッタ(心)が続けて生じ、それが繰り返されます。チッタ(心)が一つ滅すると、続けて次のチッタ(心)が生じそれが繰り返されるこの過程は極めて速いので普通の人間にはそれが分かりません。たくさんのチッタ(心)が生じては滅しているのに、チッタ(心)が一つだけで存在していると考えます。お釈迦様の説法のおかげで私たちはそれを正しく知ることができます。


●サマナンタラパッチャヨー(等無間縁)の性質

「見て知るチッタ(心)」が生じます。「見て知るチッタ(心)」が生じて滅したらその後すぐに「形という対象を受けとめるチッタ(心)」が生じます。「見て知るチッタ(心)」が生じて滅し、次いで「形と言う対象を受けとめるチッタ(心)」が生じて滅し、二つのチッタ(心)が連続して生じます。「見て知るチッタ(心)」と、新たに生じる「形と言う対象を受けとめるチッタ(心)」の間には隙間がありません。離れていません。このような性質をサマナンタラパッチャヨー(等無間縁)と呼びます。
滅したチッタ(心)と新たに生じるチッタ(心)の間には隙間が無く、二つのチッタ(心)が連続して生じ、一体となる状態をサマナンタラパッチャヨー(等無間縁)と呼びます。
これは少し分かりにくくて、難しいです。もう少し簡単に説明します。


●死と、新たな生涯の始まり

死ぬことをチュティチッタ(死心)が生じたと表現します。新たな生涯が生じること、母胎が妊娠することをパティサンディ(結生)すると言います。
ある人が今生で死を迎え、チュティチッタ(死心)が生じます。そして新たな生涯が始まりパティサンディチッタ(結生心)が生じます。今生でまだ死んでいないのに、チュティチッタ(死心)が生じていないのに、新しい生涯が生じることはありません。パティサンディチッタ(結生心)が生じることはありません。死んだからこそ新しい生涯が生じます。チュティチッタ(死心)が生じるからパティサンディチッタ(結生心)が生じることができます。このように死ぬことが原因となって新たな生涯が生じます。チュティチッタ(死心)が生じたことが原因となってパティサンディチッタ(結生心)が生じます。この性質をアナンタラパッチャヨー(無間縁)と呼びます。
死んだらすぐに新たな生存が始まります。死と新たな生存の始まりが連続して生じ、一つにまとまっています。死と新たな生存の始まりの間には間隙はありません。このように死と新たな生存の始まりが連続して生じ、一つにまとまっている状態をサマナンタラパッチャヨー(等無間縁)と呼びます。


●アナンタラパッチャヨー(無間縁)とサマナンタラパッチャヨー(等無間縁)

前のチッタ(心)が滅したことにより、次のチッタ(心)が生じることができるようになることをアナンタラパッチャヨー(無間縁)と呼びます。滅した前のチッタ(心)と、その後に新たに生じたチッタ(心)が連続して生じ、一つにまとまっている状態をサマナンタラパッチャヨー(等無間縁)と呼びます。
パーリ聖典の発趣論(二十四因縁の教え)は、このような性質を詳細かつ広範にお釈迦様が説かれたものです。ここでは初学者を対象に説明しているのでこのくらいが適切と思います。
お釈迦様がパッターナ(発趣論)の中で説かれた二十四因縁のアナンタラパッチャヨー(無間縁)に基づき、前のチッタ(心)が滅すると、新たに次のチッタ(心)が生じます。サマナンタラパッチャヨー(等無間縁)に基づき、滅した前のチッタ(心)と新たに生じた次のチッタ(心)が連続して生じ、一つにまとまるくらいまで連鎖します。私たちがそれを知ることができるのはお釈迦様のおかげです。


●名法(心と心所)が持つ特別な力

名色(心と身体)が強固で安定するように、前のチッタ(心)が滅すると直ちに次のチッタ(心)が生じて留まります。消え去った前のチッタ(心)と次のチッタ(心)が一つのチッタ(心)であるかのように感じられます。このような名法(心と心所)の特別な力により、一つの生涯を生きることができるのです。その特別な力がなければ生涯を送ることはできません。


●念を絶やさず暮らしてください

今生でチュティチッタ(死心)が生じて死を迎えるとパティサンディチッタ(結生心)が生じ新たな生涯が生じるのが定めです。今生で死を迎えるとしたら、次はより善い生涯になるように努力し、念を絶やさず暮らすようにしてください。心を込めて暮らすようにしてください。今生でチュティチッタ(死心)が生じ、次いでパティサンディチッタ(結生心)が生じる際には、善い生存世界にパティサンディチッタ(結生心)が生じるように努力し心を込めて念じてください。
新たな生涯が生じなくなれば、あらゆる苦しみから離れた寂静に達します。新たな生存が生じることなくあらゆる苦しみから離れた寂静に達するように私たちはヴィパッサナー瞑想に励み努力することができます。このように、心を込めて念じる必要があります。今生でチュティチッタ(死心)が生じて死を迎ええもパティサンディチッタ(結生心)が再び生じないようにヴィパッサナー瞑想に励み努力し心を込めて念じなければなりません。