【仏教の霊的存在】第1回
宗教はスピリチュアル(霊的なもの)と切り離せません。仏教は認識論的として哲学として語られることも多いのですが、その背後には輪廻転生という近代科学では説明のつかないバックボーンがあります。ところが、霊的なものを語りすぎると世間から「大丈夫か」と白眼視されがちなのも事実ですし、怪しいところも確かにある。そこを気をつけながらも、先生と霊的なものについてかるーく話してみようと思ったのですが、例によって軽くはなりませんでした。
榎本 先生、どうも。断食の回が終わりましたので、こんどはまた新しいことをお話ししたいのですが。
地橋 いいですね。なにを話しましょうか。
榎本 霊的なものについて話してみませんか。仏教はよく科学的だと言われますが、同時に「自分なんてないんだよ」と無我論を説いてもいます。デカルトは、最も確実なところから出発しようとして「我思う、故に我あり」と言ったのですが、その「我」がないと仏教は言うわけです。これは、個人を出発点として考えようとする西洋人からするとギョッとするらしいのですが、現代の脳科学では、脳というのは情報のネットワークシステムとして捉えられていて、そのネットワークの中で「我」が立ち現れてくるのだという説が有力になりつつあり、お、となるとこれはブッダが紀元前に直感したことと同じじゃないか、ようやく近代科学は仏教に追いついたのか、と驚く人もいます。
また、瞑想は医学的にもよいと言われていて、そう言われるとやってみようかなと思う人が増えることも確かです。このように仏教は科学化しやすい性格を持っている。とはいえ、その背後には輪廻という科学ではとうてい手がつけられないものがある。ただ、いきなり輪廻の話を伺うと大変なことになりそうなので、今日は、科学的合理性の外側について、スピリチュアルなものを入口にして、先生がどのように考えておられるのか、お訊きしたいと思います。
地橋 そうですね。ただ、輪廻なしに原始仏教を語ることも難しいですね。
榎本 話がそこに行くときは行くとして、いったん別のところから入りましょう。
霊的存在の検証
地橋 では、まず、科学とはどんなものだと思いますか。
榎本 僕の理解では実験と観察によって導き出された知見ですね。なので、みんなに公表できること、また再現性があり、検証可能であることが重要だと思います。カール・ポパーという哲学者は「科学というのは反証可能性がなければならない」と言っています。これは、「この世界は神が作りたもうた。反論は受けつけません」というような宗教の態度を念頭において、それらと科学を峻別するために言った側面があると思います。
地橋 たしかに、万人に開かれていて検証できるかどうかが問題ですね。霊的な世界というのは、特殊なセンサーの持ち主にしかアクセスできない領域といえます。見えない人には見せられないし、感じない人には知覚できない。つまり全員に開示されている世界ではない。
榎本 そして、再現性もあやうい。
地橋 誰もが検証できるわけではなく、再現性もあやういとなれば、霊的な存在を否定的に捉える人が多いのも当然ですね。
榎本 科学的に証明できないからといって、存在しないと否定するのも勇み足ではありますが……。
地橋 ブラックホールも湯川秀樹の中間子もヒッグス粒子も、可視化されたり実験的に確認されるまでは仮説にすぎず、妄想扱いされても仕方がなかった。霊的な存在も、現時点では科学の対象としては扱えないだけです。
榎本 仏教書でも、悪魔や霊的存在は心理的な象徴として書かれているものが多いと伺ったことがありますが……。
仏教学者からの否定
地橋 大乗仏教の古い学者たちは、ブッダが語る霊的な存在を煩悩の擬人化や心の想いが形象化した心理現象として捉えてきましたが、これには日本の特殊な事情がありました。
榎本 と言いますと…。
地橋 明治時代に廃仏毀釈が激化した危機感から、「仏教は倫理・道徳である。仏教は哲学・心理学である。仏教は迷信ではなく、近代的理性と調和する宗教である」と再定義しようとした流れがあったのです。キリスト教宣教師の攻撃や西洋科学主義、実証主義の批判から仏教を守るために、デーバ(神霊)や鬼霊やマーラ(悪魔)などは心の投影であり、心理的象徴に過ぎない。仏教は合理的な科学的宗教なのだ、と強調する戦略を取ったということです。
榎本 なるほど。近代化の流れのなかで宗教の霊的な部分を縮小しようとしたわけですね。
地橋 また、近代日本の仏教学では、大乗仏教中心主義が学問的前提として無批判に共有されていたので、デーバやマーラの実在性を強引に否定する解釈が流布されてきた影響も大きいですね。大乗経典には、原始仏教をあからさまに見くだし侮蔑する表現があふれていますが、私の履歴に心霊科学があるだけで、怪しい、信用ならぬ、と言われたこともありました。大きな乗り物が小さな乗り物を蔑みながら、霊的存在を公然と否定している構図ですから。原始仏教の研究者が増えるにつれ変わってはきましたが、いまだに霊的なものを語ると胡散臭く見られる危険性があります。
経典にあふれる悪魔や神
榎本 なので私たちの会話も気をつけなければならないのですが、初期仏教の経典に霊的なものの記載はどのくらいあるのでしょうか。
地橋 ものすごく多いですね。『神々との対話』や『悪魔との対話』をはじめ、実在する人格的存在として登場する経典が多々あります。煩悩の擬人化などと言ってお茶を濁せるレベルではないですね。
榎本 例えば、心理現象で片づけられないものとしてどのようなものが挙げられますか?
地橋 「サミッディの出家」(相応部1-2-10)には、鬼女がブッダの説法を聞きたいが、ブッダの周囲を力のある神々が守っていて近づけない。サミッディ比丘が同伴してくれれば接近できるので連れて行ってくれと依頼します。サミッディがブッダのもとで一部始終を話すと、鬼女は「比丘よ、世尊にお訊ねください。私はすぐそばに付いてきていますから」と声を上げるという生々しさです。心理的象徴などという解釈がいかに牽強付会であるかを露呈させていませんか。
榎本 たしかに、霊的存在同士の序列や力関係が述べられているのは異様に具体的ですね。
煩悩の象徴?
地橋 もっと解せないのは、ブッダの修行時代から涅槃に入るまで一貫して語りかけ、妨害し、挑んできたマーラ(悪魔)を煩悩の象徴と断じていることです。もし大乗の学者が言うように、マーラが煩悩の象徴だったら、なぜ煩悩を滅尽した阿羅漢やブッダにマーラが話しかけてくるのか意味不明です。論理的に成り立ちません。
榎本 それについては、どのように解説されてるんですか。
地橋 『涅槃経』のマーラとの対話は外在的存在との応答であることが明確なのに、「マーラの攻撃=煩悩の葛藤」、「マーラを退ける=煩悩に勝つ」と解釈しています。中村元の注釈では、「悟りを開いたブッダも人間であり、悪魔の誘惑を避けねばならなかった。ブッダたることは、誘惑を斥ける行為それ自体のうちに求められねばならぬ。誘惑を斥ける不断の精進が仏行そのものである」という趣旨ですね。
榎本 それは、道元禅師の「修証不二(修行と悟りは本来一つである)」の論法ではないですか。
地橋 そのとおりです。「もし後世の表現が許されるなら修証不二である」と中村自らが記しています。煩悩滅尽を目指していた私は、この解釈に相当悩まされました。え!? 解脱後にも煩悩が残存するのか…と。中村元の偉大な功績は揺るぎないし、尊敬もしてきましたが、この解釈は批判を免れませんね。
榎本 煩悩の象徴としてのマーラと、外在的実在のマーラと複数の解釈がある、と洩れ聞いたことがあります。
地橋 よくご存知ですね。部派仏教の時代から象徴的存在としてのマーラ解釈も併存してきましたが、解脱後のブッダの内面に適用させては、原始仏教の悟りの道筋が全面崩壊してしまいます。
超感覚的知覚
地橋 さきほど科学というものは検証可能でなければならないと言いましたが、これは、言葉を変えれば「凡夫の感覚の共有」ということですよ。(笑)
榎本 たしかに瞑想をどこまで深められるかによって世界と触れ合っている感覚はまったくちがってくるでしょう。僕のようなレベルでも、始めたときと今とではずいぶん違います。
地橋 つまり修行すれば、誰でも感覚が鋭くなるし、知覚が進化するということです。最初期のブッダの教団は全員阿羅漢だったし、超感覚的知覚(神通力)を備えた比丘が大勢いました。ブッダやモッガラーナ(十大弟子のひとり)を筆頭に、凡夫の共通感覚とは別次元の感覚で世界を捉えています。
霊的生類を視認していた者が多数派だったから、当たり前のように説法で触れられ、経典に残ったのではないか、と私は考えています。そうした超感覚的知覚の持ち主たちにとってリアルな実在であるのに、アベレージな感覚では感知できないから妄想だ、非科学的だというのはおかしいとも言えませんか。
榎本 センサーの感度を上げれば、見えてくるし、感じられもする。なので、見えない、感じられないから実在しないというのはおかしいというわけですね。でも、先生は最初から原始仏教徒として生まれたわけではなく、人生を生きていく中で選び取られたわけですよね。なぜ先生はそのような考えを積極的に受け入れたのかをまず聞かせてください。
輪廻転生はない?
地橋 私の修行遍歴は、結果的に四聖諦(苦・集・滅・道)の流れに即していました。苦からの解脱がゴールであり、それは輪廻転生からの解脱に帰着します。地獄・餓鬼・動物・修羅・人間・天の六道を、私たちは自らの業に応じて転生している、と仏教は考えています。もし存在するのは人間と動物だけで、超感覚的知覚で感知できる世界がないとしたら、六道の輪廻もないことになる。輪廻がなかったら、その輪廻からの解脱を目指して修行してきた私のような修行者はどうなるんですか。霊的生類が存在しなければ、六道の輪廻も無いことになり、仏教も私の人生も総崩れですね。
榎本 うーん、そこで輪廻にいかれるとちょっと僕としては困るんですが。
地橋 どうしてですか。
榎本 いろいろありますが、輪廻転生は仏教だけでなく、その前のバラモン教から引き継いでいるとも言えると思います。そして、実はブッダは輪廻転生を否定したのではないかという説もあります。簡単にいうと、仏教は無我説である、なので、バラモン教の伝統的なアートマン(真の自己)を仏教は否定する、真の自己がないのだから、いったい何が輪廻転生するというのだ。ブッダが輪廻を認めていたわけがない。――粗っぽく要約するとこうなります。和辻哲郎なんかはそんなことを言っていますね。
地橋 和辻哲郎の時代には、パーリ原典の研究が未成熟だったし、先ほどの時代背景もあり、仏教学者たちにも原始仏教が正しく理解されていなかったのです。私の定義では、「輪廻とは、業と無明によって、縁起の構造が一瞬一瞬、接続していくプロセス」です。輪廻しているのは業と縁起であり、実体的アートマンの転生なんかではないのが明白なのだから、和辻は十二縁起すら正しく理解していなかったことになるでしょう。宮坂宥勝(仏教学者)も和辻を手厳しく批判しています。
榎本 たしかに『ブッダという男―初期仏典を読みとく』の清水俊史も、原始仏教の経典をいくら探しても、ブッダが輪廻を否定したなんて書いたところはないと主張していますね。
いかに霊的なものを扱うか
榎本 先ほどの問いにもどりますが、先生が精神世界というか、スピリチュアルな方向に歩まれたきっかけを教えていただきたいのですが。ちなみに、超感覚的知覚の持ち主としてブッダやモッガラーナを挙げられましたが、先生ご自身はそのような体験はされたことはあるのですか。つまり、霊的世界からの啓示を受け取られたことはおありですか?
地橋 まあ、無いわけでもない、と言っておきましょう。
榎本 微妙な濁し方ですね。(笑)
地橋 実は、私は、霊的なことを言う人があまり好きではないのです。
榎本 ほお、それは、どうしてですか?
地橋 やれデーバ(神霊)だマーラ(悪魔)だ、霊示を受けたの神示を授かったのと、金科玉条のように振りかざして御託宣を述べている教祖や預言者が気持ち悪いのです。神の思し召しだから、なんやね。霊が言おうが、神が語ろうが、内容の善し悪しだけを正しく判断するのがヴィパッサナー瞑想者なのだという立場です。神の啓示だろうが、自分の思想だろうが、ダンマに則った正しいものか、真実なものか、だけが問われるべきなのです。唯一絶対の、宇宙で一番偉い神が言ったから信じるし、服従するなどという人たちとは水が合いませんね。
榎本 霊的なものかどうかを気にする必要がないということですか。
地橋 そうです。啓示が何に由来するかは気にしないでよい。デーバ(神)も霊も輪廻の中の迷える存在です。間違ったことも言うだろうし、正しいことも言う。そのへんの性格の悪いおばさんや、低レベルの新興宗教教祖が何を言おうが、関係ないでしょう。霊的次元にそのまま再生して霊示を送ってきている、と考えればよいのです。
榎本 霊的世界とこの世が変わらないのですか?
地橋 身体の構成因子が異なるだけで、心は何も変わらないと考えてよいのです。愚か者は霊的次元に移行しても同じく愚か者です。高い境地に達した神霊は、高度なメッセージを送ってくるでしょうが。差別することも、特別視することもありません。
霊が言おうが、神が言おうが…
榎本 では、そのメッセージの善し悪しはどのように判断すればよいということになるのでしょうか?
地橋 それは常識に照らし合わせればいいのです。もっと言えば、ダンマを拠りどころにすればよい。
榎本 先生があるメッセージを受け取ったとしても、それが神示であるか、霊示であるかは関係がなく、コンテンツだけが重要であり、そのコンテンツの善し悪しは常識に照らし合わせればよい、ということでしょうか?
地橋 そうです。受け取ったメッセージがダンマに基づいているか否かを判断基軸にするのです。霊示や神示というものは、潜在意識と混同されやすいものです。一瞬一瞬の想念を媒介にして、顕幽両界が響き合っているという仮説もあります。 いつも同じ存在が安定的に交信してくる保証はないし、こちらの心境が下落すれば、瞬時に低級な存在と響き合うでしょう。誤認や錯覚の危険性が常にあると心得ておくべきです。
榎本 だから絶えざる検証が不可欠だと。
地橋 そう。アクセスできない人にとっては、それを信じるか信じないかの二択に陥ってしまうのですが、それはヴィパッサナー的ではない。霊示を受けた側も、それを聞かされた側も、コンテンツだけに注目せよと、ダンマを拠りどころにせよ、と私は強調するのです…。
(以下、次号)
先生と話そう