(1)
★やり場のない不満や怒りが、スケープゴート叩きの集団ヒステリーになりかねないご時世。
 今こそ、意識の矢印を外界から自分自身の内側に向けるヴィパッサナー瞑想が必要なのではないか。
 もし怒りや苛立ちが自覚されたら、一転、自分よりも苦しんでいる人達に向けて慈愛の念を放つ瞑想で乗り超える……。
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(2)
★孤独にならなければ、瞑想はできない。
 「思考を止めよ。イメージに手を出すな。物事を概念化せず、あるがままに如実智見せよ」と求められているからだ。
 街を出歩き、人と交わり、俗事に執着していて、妄想が止まるだろうか。
 瞑想修行に入ることを「リトリート(撤退・隠遁)に入る」と言う。
 俗世を離れて、僧院に籠るからだけではない。
 眼耳鼻舌身の五感の対象に手を出さない覚悟を定めるからだ。
 この世から限りなく撤退した果てに、執着を完全に手放す瞬間が訪れる……。
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(3)
★食べ過ぎて頭がボーッとしている状態が、瞑想には最悪だ。
 体を整え、意識の透明度を増し、瞑想を深めるには、食をコントロールしなければならない。
 労働するなら完食すべきだが、瞑想にはバランスのよい食事を腹六分目程度がよい。
 つまり、食欲に抗い、もっと食べたいのに、止めなければならない。
 瞑想は、アンチ煩悩、反自然を本質とし、世の流れに逆らうもの……。
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(4)
★透明な体感が得られても、心にわだかまり執着しているものがあれば、瞑想は破綻する。
 人を赦し、自分を赦し、己の運の悪さ、ネガティブな暗い宿業を受け容れなければ、心に重くのしかかる闇が晴れることはない。
 無差別殺人鬼の仏弟子アングリマーラが黒い塊を吐き出して解脱した史実ほど、懺悔の瞑想の励みになるものはない……。
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(5)
★事実をありのままに客観視するマインドフルネスを妨げる天敵は、巧妙に侵入してくるエゴ感覚だ。
 良い瞑想ができている感動→嬉しさ→自己満足→得意満面→傲慢……。
 諸々の条件がたまたま揃っただけなのに、それを自分の手柄と錯覚する妄想にサティが入らないのだ。
 「感動」にも「嬉しさ」にもサティが入らず、自惚れている自分を対象化できない愚かさ。
 傲慢なエゴ妄想が展開してしまう反応パターンを書き換えてくれる懺悔の瞑想……。