八ヶ岳は火山である。それも活火山であるらしい。知らなかった。
浅間山や阿蘇山、桜島のように煙を上げてはないし、山頂にカルデラ湖を持っているわけでもない。なので、なんとなく火山ではないと思い込んでいた。それにしては温泉がたくさんあるなと思って調べてみたところ、立派な活火山であったのだ。
八ヶ岳、正しくは八ヶ岳連峰は、夏沢峠を境に北八ヶ岳と南八ヶ岳に分かれ、北の方が比較的新しい年代に噴火している。硫黄を含む温泉があるのはこの火山活動の影響だろうか。
私が住んでいるのは八ヶ岳南麓。こちらの泉質は、中性のナトリウム-炭酸水素塩泉だ。匂いは無くとろみのある湯である。行きつけの温泉は噴出温度39℃で、少しぬるいかなという程度。露天風呂だとさらにぬるい。夏は良いけれど冬場はもう少ししっかり温まりたい。
私は自宅の風呂場を使っていない。寒いからである。
前回も書いたが、北側にある風呂場は冷蔵庫を通り越して冷凍庫だ。おまけに追い焚き機能が無い。
真冬に凍りつくので、むしろ不便だとか、水抜きが面倒とか、購入する際に説明されたのだが、よく分からなかった。とにかくお湯を張ってもすぐ冷める。風呂場が寒い。床が冷たい。二人で使うとなると、後で入る方は熱い湯をたっぷり足さないといけない。
出たら出たで、脱衣所で震え上がりながら着替えねばならない。水道の蛇口を少しだけ開けてチョロチョロと水を流しておくのだが、それも朝には凍っている。湯を張ったままにしておいたら、おそらく朝には氷が張っているだろう。破裂しないだけありがたいと思うことにしている。
そういうわけで、毎日近所の温泉に通っている。
住民票を移して地元の北杜市民になったので入浴料が半額なのがありがたい。毎日通えば受付の人とも顔馴染みとなり、お風呂仲間もできて、「どこそこで熊を見かけた」などという情報ももらえる。
観光シーズンではない冬場の温泉は空いている。広い湯殿にひとりだけということもある。そういう時はたっぷり1時間の瞑想タイムとなる。
1Day合宿での食事の瞑想の要領で、ひとつひとつの動作や感覚にSatiを入れていく。移動するときの足の裏の感覚もていねいに取っていく。露天風呂に出た時の空気の感覚、岩場の感触、サウナでの熱感、温泉でしか得られない感覚があるのが新鮮だ。
温泉に浸かれば、瞑想をしない人でもそうだと思うが、心の奥から色々なものが浮かび上がってくる。過去の失敗や後悔、微細な怒り、そういうものも受け止めて、言語化し、捨て去る。実にいい時間だ。
だが、問題もある。快と不快を比べると不快の方が鋭いSatiになる。
例えば歯医者さんの椅子の上で、キーンという音を聞きながら、「不安」「接触」「痛み」「安堵」とやっている時の切実な集中、精度と比べると明らかに鋭敏さには欠ける。
座る瞑想で、膝のジンジンする痛みを見ている時は、それ以外に意識の逸れようが無いのだが、温泉に浸って心地よさを感じ、心身ともにリラックスしている時のSatiは、鋭さに欠ける。少なくとも私はそう感じる。
今までの人生の中で、耐えられない程の悲嘆、逃げられない人間関係の苦しみ、そのまっ只中にいる時の方がかえって瞑想に真剣になれた。
今は持戒や布施のおかげか、ほとんどの苦から解放されたような毎日を送れているのだが、私に瞑想を続けさせてくれるのはかつて深く刻まれた苦の記憶だと思われてならない。そうなると、苦に襲われ続ける人生の方が実は素晴らしい人生で、苦痛の無い人生とはろくでもない、ということになりはしないか?
瞑想を始める契機となるのは、今の苦しみから逃れたいからという人が多いのに、これはまるで本末転倒ではないか。
できるなら苦に襲われることなく、安穏な生活を送りたいものである。
だがもしまた苦しみがやってくるなら、それも「ありがたい修行の機会」と喜んで受けて立ちたいと思う。
熊も鹿も入りに来るという、傷が癒える湯に浸かりながら、「生きとし生けるもの」のひとりとなって大地の恩恵をいただく日々である。