一. マインドフルネスからヴィパッサナーへ

  (二)マインドフルネス瞑想の闇

 マインドフルネス瞑想が世界的に普及したのは、仏教の技法であることを隠蔽し、倫理的側面を抜き取って適用範囲を広げたからでした。なぜ、そこまでして、ジョン・カバット・ジンはマインドフルネス瞑想を普及させたかったのでしょうか。ストレスに苦しむ多くの人を救うためには、万人に開かれた方法でなければならないと考えたからです。  彼の目論見は大当たりして、目覚ましい効果が立証され、喧伝されるや、マインドフルネス瞑想は多方面のさまざまな分野で世界的な大ブームになりました。労働者のストレスが緩和されれば、人的資源をより効果的に活用できるのですから、企業やビジネスの世界が放っておくはずがありません。テクニックに特化した手軽な技法が、倫理的制約一切なしに、無条件で誰でも好きなように使ってよいと提示されたのですから、強欲資本主義がたちまち飛びついてきました。

 生産性向上のための道具化

 倉庫労働者が熱中症で次々と倒れていく過酷な現場にエアコン導入を要請したところ、空調設置よりも、救急車と救急隊員を常駐させたほうが安上がりと判断するのがグローバル企業です。労働者の監視システムには莫大な資金を投じながら、エアコンはケチるのですから、マインドフルネス瞑想は生産性向上と労働搾取の隠蔽装置として持ってこいだったのです。
 劣悪な労働環境や非人間的な経営方針を改善するコストを削減し、「健康やメンタルヘルスは自己責任です。現状の職場環境に、このまま適応する支援ならしますよ。どんなに辛くても、苦しくても、マインドフルネスで頑張って、乗り越えてね」というわけです。
 何ごとも「自己責任」が強調され、貧困や格差は個人の選択や能力の問題とされがちな時代です。ストレス耐性の強化にも、感情の制御にも、集中力の向上にも、マインドフルネス瞑想が極めて効果的で、しかも従業員のウェルビーイングを向上させるという美名を隠れ蓑(みの)にできるのですから、生産性を最大限に引き出す格安の手段として利用する企業が後を絶たないのです。

 マインドフルネス・プログラムを導入した米国の健康保険会社では、過酷なノルマ制度を維持しながら、ストレス30%軽減と宣伝し、英国小売業では、時給は据え置いたままパート従業員に瞑想を義務付けるのです。製造業のライン作業員の集中力を向上させるためにマインドフルネスを導入した企業では、1日10時間労働を押しつけながら休憩時間の削減を正当化しています。離職率37%低下を謳(うた)って名を馳せたGoogleの「Search Inside Yourself」プログラムも、その裏では、残業や長時間会議の前に気持ちを切り替え、集中力を高め、効率よく働くツールとして長時間労働の合理化に利用されていると批判されています。
 カバット・ジンが強調した「9つの実践態度」のなかには、「判断(評価)しない」「忍耐強くある」「受け入れる」「とらわれない」「感謝する」などの項目が含まれています。しかもマインドフルネス瞑想では、技術的な側面のみが提示され、意志決定の判断基軸である倫理性は抜き取られています。自らの感情や思考を客観視する訓練を受けた従業員が、「何も判断するな」「忍耐強くあれ」「受け入れろ」「とらわれるな」「感謝せよ」と自己抑制する術を学ばされ、文句を言わず、効率的に働く従順な社畜へと改造されていく道が開かれてしまったのです。

 仏教の瞑想はお断り

 同じ技法のヴィパッサナー瞑想が、企業研修を受け持った場合はどうでしょうか。まず、冒頭で瞑想の意義と目的が説かれ、悪を避け善をなす倫理的方向性が明示されます。貪欲と怒りと無知があらゆる苦の根本原因であり、心が汚れるか否かが直観的に善悪を分別する目安であることが示唆されます。
 さらに、なぜ今の瞬間に気づくことが大事なのかが説明され、反応する瞬間に善業や不善業が作られる因果論の構造を知ることになります。殺す者は殺され、欺く者は欺かれ、搾取する者は搾取されるだろう…と話が進んだあたりで、主催者側からストップがかけられ、二度と来ないでくれと通達されるでしょう。
 ヴィパッサナー瞑想が強欲資本主義に悪用されることはあり得ないのです。五戒と因果論が説かれ、他者への慈しみや思いやりが幸福への道であり、強欲を満たすために人に苦を与える者は必ず報いを受けることが強調されるからです。
 昔、空手の道場主が10人ほどの弟子を引き連れて瞑想会に通いはじめたことがあります。対戦時の恐怖感を克服するために、ヴィパッサナー瞑想を活用しようと考えたのです。ダンマトークを聞法(もんぽう)しながら修行を続けていくうちにのめり込み、慈悲と仏教が武術を圧倒するようになり、空手を取るか、仏教の瞑想を取るか、と真剣に悩みはじめました。
 家族も生活もある身なので、職業を捨てることはできなかったのでしょう。ある日を境に瞑想会に姿を見せなくなり、その後の消息は杳として知られません。「戒・定・慧」と慈悲がセットになった瞑想は、闘うことの意味を問い、礼節を重んじる武道家の心も揺さぶるのです。

 マックマインドフルネス現象

 ヴィパッサナー瞑想を始める人を大別すると、人生苦を乗り超えたいドゥッカ(苦)組と、上昇志向の強い能力開発組と、少数の解脱組がいます。解脱組は、細々と修行を続ける人と出家してプロになる人に分かれます。能力開発組は、煩悩の引き算はやってられないと仏教を捨てる人もいれば、苦の構造を正しく理解して生き方を変える人もいます。ドゥッカ組は、当初の苦しみが無くなれば瞑想病院を退院して元気いっぱい欲の世界に戻る人と、その後も腰を据えて瞑想を続ける人に分かれます。欲の世界に戻った人も、悪を避け善をなす倫理的な生き方は失わないのが通例です。やはり、ダンマを聞くことによって人生の流れが変わる人たちのために、意志決定の判断基軸と人生の指針は明示されなければなりません。
 一方、マインドフルネス瞑想では、仏教のような倫理的方向性は示されず、苦を根絶するダンマ(法)が説かれることもありません。気づきの力の驚くべき効能だけが強調され、その使用目的も使い方も個人の判断にゆだねられ、さあ、好きなようにお使いください、と大衆に投げ込まれたのです。ストレスを解消したい、集中力を養いたい、効率的に働きたい、多くの成果を上げたい、不快な感情をうまくやり過ごしたい…と、手っ取り早く欲望を満たすツールとして爆発的に利用されていきました。
 こうして道具化され、商品化されていった流れをハンバーガー・チェーン店に喩えて「マックマインドフルネス現象」と呼ばれています。医学的利用や従業員の業績向上だけではなく、「より良い自分」「より高いパフォーマンス」を求める消費者に、ストレス軽減、リラクセーション、ダイエット、美容、脳トレ、と万能の手法としてビジネス化されているのです。企業研修、月額課金制アプリ、高額セミナーやリトリート、「三日で瞑想インストラクター」と謳われる資格ビジネスなどが溢れ、2023年の米国瞑想市場では約20億ドル(2930億円)規模に達したとされています。
 人生の苦しみの根本原因(煩悩&執着)を乗り超える技法だった仏教の瞑想がカスタマイズされることによって、またたく間に大ヒット商品として欲望の資本主義世界を席巻していったです。
 欲望が満たされて満足する人はいません。欲しいものが手に入った瞬間、次の欲望が生まれ、身を焦がして求めて苦しみ、奪い合って争い苦しみ、得られなければ不満足感と劣等感に苦しみ、掛けがえのないものを得れば失うことに怯え、上を見れば嫉妬し、下を見れば見下して顰蹙(ひんしゅく)を買い、執着するものに縛られながら、私たちは苦しい人生を歩んでいることに気づかないのです。
 マインドフルネスによって高められた気づきと集中力が、より効率的な労働のために消費され、それによって得られた利益が資本家に蓄積され、メディアの買収やAI搭載の兵器開発など、さらなる欲望を果てしなく再生産しながらドゥッカ(苦)の末路に向かって循環しています。ドゥッカ(苦)の定義は「不満足性」です。「渇愛(タンハー)」という名の執着が苦の原因であることを心得ず、多くを得れば得るほど幸せになれると錯覚しながら、欲と貪りのスパイラルに引きずり込まれていくのです。

 エゴを強化する瞑想

 2018年、ドイツのゲバウアー教授らの研究によって、ヨーガやマインドフルネス瞑想実践がエゴを静めるのではなく、「自分は特別な存在だ」という感覚を強める傾向があり、ナルシシズム(自己愛)や自尊心の肥大に繋がる可能性のあることが実証的に示されて、世界的に注目されました。
 これは、93名のヨガ実践者を15週間、162名の瞑想者を4週間追跡した結果、実験終了後の参加者の「自己中心性」と「自己高揚バイアス(自分を実際以上に高く評価する)」が有意に増大することが確認されたもので、2021年のカナダの研究でも追認されています。
 なぜ、マインドフルネス瞑想をするとエゴが強まるのでしょうか。
 ヴィパッサナー瞑想では無我論が明確に説かれ、自己中心性の解体が最も重要なタスクですが、マインドフルネス瞑想では、こうした哲学的基盤が意図的に抜かれ、「ストレス低減」「集中力向上」「情動のセルフコントロール」の訓練によって自己肯定感を高めることが目標になっているからです。マインドフルネスのスキルが上達すると自己評価が高まり、「自己高揚バイアス」によるエゴの強化が満足感と幸福感の源泉になっているとも指摘されています。また「自分の思考を裁かない」という指示が、「自分を肯定してもよい」というナルシスト傾向に通じているのも一因です。
 ヴィパッサナー瞑想では、こんなことは起きようがありません。心の現象も身体の現象も無常に変化するプロセスでしかない。あらゆる現象は条件によって生滅する縁起の連鎖でしかないのに、法と概念が仕分けられないから、エゴ妄想を実体視する錯覚に陥っているのだ。「自己高揚感」とラベリングしましたか? もっとしっかりサティを入れなさい、と言われてしまうのです。さらに、自己高揚バイアスは「慢」の煩悩に過ぎず、高慢に無自覚でいると、因果法則上、やがて自分が見下されることになるだろう、と突っ込まれます。ヴィパッサナー瞑想の修行は、苦(ドゥッカ)の根絶を目指して、無常・苦・無我の真理を洞察する智慧へと導かれていくのです。

   現代の邪念(ミッチャー・サティ)

 ミッチャー・サティとは、倫理的基盤が失われた「邪悪な気づき」です。サティ本来の客観視能力や集中力、注意の制御や反応の抑制能力などが邪悪な方向性に使われてしまうことです。
 「(周囲の様子を)見た」→「(今だ)と思った」→「(商品を)取った」→「(バッグに)入れた」→と、万引きの瞬間にマインドフルネスが使われ、スナイパー(狙撃手)が標的の微細な動きに全神経を集中させ、特殊詐欺の指示役が冷徹に命令を伝え、パワハラ上司が部下の弱点を冷静に見抜いて攻撃する瞬間も、すべてミッチャー・サティの応用例になるでしょう。
 行動指針は何も示されず、意志決定はあなたしだい、ご自由にどうぞ、と提供されたマインドフルネス瞑想では、今、ここ、この一瞬に注意を払う技術のみが独り歩きし、注意が向けられる対象も、行為の善悪も問われなくなります。これが、ミッチャー・サティです。誰もが簡単に、自己の欲望や攻撃性をより効率的に、より巧妙に達成するための強力な武器を手に入れてしまったも同然です。そしてついに、ジョン・カバット・ジンが脱倫理化して流行らせたマインドフルネス瞑想は、現代の邪念として、軍事利用という最終局面にまで突入してしまったのです。

 殺傷のためのマインドフルネス

 陸・海・空の米軍および海兵隊のすべての部隊を始めとし、NATO、英国軍、ニュージーランド、イスラエル、ウクライナ軍などの軍事組織では、「バトルマインド・トレーニング」として、マインドフルネス技法が兵士の戦闘能力向上に導入されています。当初の大義名分は、戦場での兵士のストレス耐性や恐怖心の制御、PTSD予防が目的とされましたが、実態は、人を殺傷する能力を高めるための技術として応用されているのです。より冷静で、より効率的に、そしてより躊躇なく敵を殺傷できる「マインドフル・スナイパー」を育成することがマインドフルネス訓練の真の目的です。
 2013年の研究では射撃命中率が19%向上したとされ、敵を殺傷する際の心理的抵抗感を減じ、冷静に戦闘行為が遂行できる兵士を養成するために利用されているのです。元兵士の証言によれば、「マインドフルネス瞑想で良心の呵責が消え、任務を機械的に遂行できた」と言います。
 罪悪感を覚えるのは人間として正しい反応であり、悩み、苦しみ、葛藤しながら正しい道を選び取るべきなのに、何もジャッジせず、今の瞬間に集中し、「嫌悪感」や「妄想」を見送っていくテクニックで平常心を保つ。これが、「科学的」で「中立的」でどんなストレスも低減できる邪念としてのマインドフルネスです。
 かくして、狙撃手は研修で研ぎ澄まされた集中力によって、呼吸も心拍の乱れもなく、冷徹に引き金を引くことができるようになり、歩兵は恐怖や嫌悪といった感情に惑わされることなく、状況を客観的に判断し、最適な戦術行動を瞬時に選択できるようになります。つまりマインドフルネスは、兵士を殺人という行為に対する心理的障壁から「解放」し、より機械的で効果的な殺人マシーンへと変貌させるための精神的武器として利用されているのです。
 これは、仏教の根本である倫理性と慈悲の心を根底から踏みにじる行為であり、マインドフルネスという技法が到達しうる、最も深刻で悪魔的な堕落の姿でしょう。仏教の根本を抜き取ってまで多くの人に広めたかったカバット・ジンのマインドフルネスは、これ以上はない大成功をおさめ、人類を破滅に駆り立てる最悪の方向にまで普及したのです。

 善意と傲慢と愚かさ

 ジョン・カバット・ジンは真剣に仏教を学び、修行もした善意の人で、多くの人々の苦痛を軽減したいという真摯な動機からマインドフルネス・ストレス低減法を普及させました。彼は「宗教色を排し、誰もが受け入れやすい形でマインドフルネスを普及させることは、仏教の本質を裏切るのではなく、方便としての戦略である」と繰り返し述べています。
 ここに、カバット・ジンの善意と傲慢と愚かさがあります。もし「戒・定・慧」の三学から倫理を取り去ってもOKなら、ブッダがそうしていたでしょう。「悪を避け、善をなし、心を浄らかにせよ、これが仏教の全てである」とブッダは明言したのです。強欲と残酷さを抑止する倫理を抜き取ったら、マーラ(悪魔)がほくそ笑む邪悪の道が開かれてしまうことを理解しない愚かさと、仏教の根本的構造を好き勝手に改変しようとした傲慢さを自覚できなかったことが、ジョン・カバット・ジンの悲劇でした。技術だけのマインドフルネスからは洞察の智慧が生じないことを、身をもって証明したと言えるでしょう。
 ジョン・カバット・ジンのマインドフルネス瞑想の失敗は、仏教のダンマに基づいた「正念(サンマー・サティ)」へと回帰しなければならないことを力強く教えています。(つづく)
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