(1)本気で強いチェータナー(意志)を発し続ければ、いつか必ず現象化し具現化していくのが業の世界だ。
願望が引き寄せられるように実現するのも、同じ業の法則に則っている。
諦めた瞬間、ネガティブな結果を強く願ったかのように、そうなっていく……。

(2)膝を傷めた時、医者からもリハビリ療法士からも「もう治ることはない」と絶望を宣告された。
だが今や、1時間の座る瞑想が難なくできるようになった。
心の力が全てを創り出していく、と一貫して説いてきた。
限られた知識と経験で組み立てられた世界の暗示になどかかる訳がないという自負……。

(3)エゴや自我が法として実在するなら、仏教は無我論を説かなかっただろう。
ありのままの自分と、勝手に妄想している自己イメージとの間には、越えがたい溝がある。
真実の状態を否定し、抑圧し、次々と人生苦を生み出すエゴという偽の印象。
芋づる式に続くプライドと劣等感と渇愛……。

(4)劣等感が強く、しかもプライドも高い人は、ありのままの自分を観るサティの瞑想はやりたがらない。
化けの皮が剥がされ、イメージが崩れてしまう。
できない自分、カッコ悪い自分の真の姿を認める瞑想など、イヤや。
偉大なもの、崇高なもの、永遠なものとの合一を目指す方が好きやねん!

(5)妄想から執着が生まれ、執着から苦しみが生まれる。
そんなことは頭ではわかってはいるが、のたうつようにまた苦しんでしまうのは、思考モードを離れないからだ。
思考を止める訓練 、概念ワールドを出る瞑想が救いとなる。
「……と思った」と思考を対象化していく解放への道。

(6)写真記憶の能力を捨て、知覚情報を意味化する左脳を進化させた人類。
言語野を一瞬停止させて思考を止め、直接知覚した情報を再び左脳のスイッチを入れて認識確定するヴィパッサナー瞑想。
そんな脳の使い方を進化させていく人達は、共同幻想を信仰する人達と別の道を歩むことになるのだろうか。

(7)サティの一瞬に、全てがある。
好ましい対象に夢中になって、食いついてはいけない。
ネガティブな対象でも、ありのままに認めなければならない。
事の本質を洞察する智慧を得なければならない。
公平なエゴレスの視座から気づきを入れなければならない。
貪瞋痴から出離する一瞬……。