2005年11月から2006年1月に掲載されました。今月はその第1回です。


1.混乱から智意へ
 ブッダは、すべての衆生に深く染み付いている、「誤った見方」が四つあると指摘しています。その四つとは、
(1)無常の中に常を見ること
(2)不快の中に快を見ること
(3)醜の中に美を見ること
(4)無我の中に我を見ること
です。
 これらの「誤った見方」は三つのレベルにおいて広まっています。それは、知覚と思考と見解においてです。蜃気楼のような知覚がこれらの幻想と妄想の種を植えます。思考がこれらに栄養を与え、見解がこれらを強化します。最終的に生じるものは、私たちを輪廻の苦しみに束縛する、人生に関する誤った見方です。
 これこそ世界が陥っている混乱状態です。この偏った世界観を正すために、ブッダは四つの知覚を熟考の対象として訓練するよう薦めました。
(1)無常の知覚
(2)不快の知覚
(3)醜の知覚
(4)無我の知覚
です。
 これらの知覚を訓練し、発達させるには、高度な明晰さと深い視野が必要です。これらの知覚を系続的に発達させると、この混乱状態から智慧へ至ります。そして、智慧は輪廻の苦しみへの束縛からの解放を確実なものにしてくれます。

2.獅子吼
「比丘たちよ、百獣の王である獅子は夕方に洞穴から出る。出ると、伸びをする。伸びをすると、四方を見渡す。四方を見渡すと、三回獅子吼する。三回獅子吼すると、獲物を求めて勇んで出発する。
 比丘たちよ、動物界の如何なる生き物も、獅子吼を聞くと、大部分の者は恐怖と不安と恐れにおののく。穴に棲むものは穴に潜り込む。水に棲むものは水に飛び込む。鳥は空に飛び立つ。
 そして、比丘たちよ、村や町や王国で頑強な鎖に繋がれている堂々とした象でさえ、その鎖をばらばらに引き裂き、糞尿を漏らし、慌てふためく。
 よって、比丘たちよ、百獣の王である獅子は動物界の全ての生き物に対してそれほど強力なカを及ぼすのである――それほど影響力が強く、それほど威厳があるのだ。
 比丘たちよ、例えそうだとしても、応供、等正覚、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊である如来がこの世に登場し、

このようなものが物質(色)であり、物質の生起であり、物質の消滅であり、
このようなものが感受(受)であり、感受の生起であり、感受の消滅であり、
このようなものが知覚(想)であり、知覚の生起であり、知覚の消滅であり、
このようなものが準備(行)であり、準備の生起であり、準備の消滅であり、(※註)
このようなものが意識(識)であり、意識の生起であり、意識の消滅である

とダンマを説くと、
 長寿で、美しく、祝福され、高貴を館に長い間住む神々でさえ、その如来の説法を聞いて、大部分の者は恐怖と不安と恐れにおののく。 『友よ、それはこのようである。私たちは無常であるのに、自分たちは常であると思っている。私たちは不安定であるのに、自分たちは安定していると思っている。私たちは非永遠であるのに、自分たちは永遠であると思っている。友よ、確かに私たちは無常で、不安定で、非永遠なのだ』
 比丘たちよ、如来は神々を含む世界に対してそれほど強力な力を及ぼすのである――それほど影響力が強く、それほど威厳があるのだ・・・」

「獅子吼」とは、ブッダの「すべては無常である」という教えが、幻影に浸っている神々と人々に与える衝撃を絵画的に描写したものです。永遠の自我に対する、神々と人々の独りよがりの信念がその獅子吼によって揺り動かされ、「大部分の者は恐怖と不安と恐れに」襲われるほどでした。この印象的な宣言によって、正と死の輪廻に囚われているこの世の者たちに対する如来の独特なメッセージが強調されます。それは、「目覚めて物事をありのままに見なさい」という明快な呼びかけなのです。

3.標的
 次に述べる日々の訓戒はブッダが弟子達に与えたもので、解放の達成に至る「六つの稀な条件」の価値を強調しています。
「比丘達よ、ぐずぐずせずに努力し続けなさい。
*この世にブッダが現れることは稀である。
*人として生まれることは稀である。
*絶好の機会は稀である。
*「出家」することは稀である。
*真の法(ダンマ)を聞くことは稀である。
*善き人との交友は稀である。
 この六つの稀な条件は、下に行くほど重要な順に並べられています。この世にブッダが現れることは極めて稀です。それは確かに稀なのですが、ブッダの時代に人として生まれることの方が遥かに稀です。人として生まれたとしても、環境が良く心身の障害が無いことに恵まれた、修行をする「絶好の機会」に遭遇することの方がもっと稀です。
これらの好条件に恵まれたとしても、すべてを放棄するという真の心を以って「出家」することができることは稀です。
「出家」したとしても、苦から解放してくれる真の法(ダンマ)を聞く機会が必ずしも得られるわけではありません。
法を聞く機会があったとしても、正しい友人関係?善き人々との交友に巡り合わなければ、適切な導きが無いため途方に暮れてしまいます。これが真理の探求者が手に入れることのできる稀な機会の中で最も稀なものです。
 標的にある色付きの同心円のように、最初の五つの稀な条件は解放の直接条件として、有益な友との交流の価値を強調しています。ブッダの従者であるアーナンダ尊者はブッダへの取次ぎ係の仕事もしており、かつて有益な友との交流の価値についての印象を語ろうとしたことがありました。
「尊師よ、この聖なる人生のおよそ半分は有益な友との交流に懸かっております」
 アーナンダは有益な友との交流の価値を過小評価していることにほとんど気づいていませんでした。すると、ブッダは次の印象的な言葉でアーナンダの考えを正しました。
「アーナンダよ、そうではない。確かにそうではないのだ。アーナンダよ、この聖なる人生のすべてが有益な友との交流に懸かっているのだ」
 したがって、聖なる生活で成功を収めるのにとても必要な、有益な友との交流を確保して初めて標的の真中に当てたことになるのです。

※注:ここではパーリ語、サンカーラのことを述べているのだが、ニャーニャナンダ長老はそれを「準備」preparationsと英訳している。
(文責:編集部)