榎本 こんにちは。前回はすこし理論的で難しい話をしてしまったので、今回は軽めの話題にさせていただきます。
地橋 実は私は、どんな話題でも重くするのが好きなんですよ(笑)。
榎本 存じております(笑)。重いのも面白いのですが、今回はほどほどにしていきたいと……。
地橋 わかりました。で、なにを話しましょうか。
榎本 瞑想するとどんな〈ご利益〉があるのか、についてです。瞑想によってもたらされるメリット、これを〈ご利益〉と呼ぶことにして、これはいったい何か。さらにこれに絡めてあと二つ。合計で三つお尋ねしたいのです。
地橋 なるほど。
榎本 今日、今月号の「月刊サティ!」の巻頭ダンマトークを拝読したのですが、そこで先生はマインドフルネスについて語られてました。マインドフルネスが、ヴィパッサナー瞑想から宗教色を脱色して、科学的な裏づけで信頼性を強化し、瞑想の普及に貢献したということは大いに認めつつも、仏教の持つ道徳的な部分を切り捨ててしまったことへの懸念を語っておられました。おそらく、今月号、つまり、この対談が載る7月号では、さらに詳細にこのことについて論じられていることと思います。今回のお話はそれと重なるかもしれませんが、マインドフルネスでは得られないものがヴィパッサナー瞑想にあるのなら、そこも教えていただきたい。これがふたつ目です。
地橋 もう一つは?
榎本 三つ目は、先生が瞑想の指導を通じて最終的に何を目指しておられるのか、端的に言えば、どのような瞑想者を育てたいのか、という質問です。僕などは技術的な質問に終始することが多いのですが、瞑想があるレベルに達して以降、先生はどのような方向へ指導を発展させたいとお思いでしょうか。これら3点について3回にわたってお訊きしたいと思っています。
地橋 了解です。ところで3番目ですが、これについて先にすこしだけ語っておいてもよろしいでしょうか。
榎本 (内心、少しだけと言いながら長くなりそうで怖いなと思いつつ)ええ、講演会モードにならなければ、ぜひ……。
地橋 育てたい瞑想者、これを私は3段階に分けて考えています。
育てたい瞑想者を段階別に
地橋 まず第1段階。悪を避け善を為す瞑想者を育てたい。
榎本 うむ。倫理にかかわることですね。
地橋 そうです。倫理性を確立することです。そして、第2段階は心が清らかな瞑想者を育てたい、になります。
榎本 第1段階と第2段階は関連しているように聞こえますが、どういう風に区別されているのでしょうか。
地橋 「悪を避け善をなす」は、仏教では、五戒を守る(殺さない・盗まない・不倫しない・嘘をつかない・酩酊しない)が1丁目1番地になります。しかし五戒だけでは、欲望や怒り、高慢、嫉妬などが、漏れてしまいますよね。
榎本 たしかに、グリーンヒルでも怒りのコントロールに悩んで1Day合宿に通うようになった方は多いですね。「へえ、昔はそんなに怒っていたのか」と思われるほど、今では柔和な方ばかりなのですが。
榎本 「貪・瞋・痴」の三毒、つまり〈貪〉と〈怒り〉と〈法を知らない無知〉、この三つの煩悩が苦しみの根源なので、これを克服していくのが仏教の実践なのです。煩悩に汚れた心が浄らかになればなるほど苦しみから救われていく。だから、2番目の回答は、心が清らかな瞑想者を育てたい、になります。
榎本 わかりました。三つ目の〈無知〉が難しそうですが、それをお訊きするとまた迷宮に入りそうなのでぐっとこらえ、3番目の瞑想者について教えていただきたいと思います。
地橋 3番目は、解脱を目指す瞑想者ですね。
榎本 なるほど。今の三つを先生は、瞑想の技術論を超えたところでお話しされていますね。五戒を守る。貪・瞋・痴を克服する。そして解脱を目指す。どれも倫理にかかわると同時に、マインドフルネスではあまり語られそうにないところです。
地橋 そうです。ただこれを深掘りすると榎本さんは嫌がるでしょうから、まずは瞑想の〈ご利益〉の方を先に話しましょうか。
榎本 ご配慮ありがとうございます。でも、そう言われると逆に気になるので、ちょっとだけお聞きします。解脱を目指してグリーンヒルの門を叩く人は、全体に対してどのくらいの割合を占めているのですか。
地橋 この辺はすこし変化しておりまして、10日間合宿をやっていた頃はそれなりに多かったですね。合宿をはじめた当初は、解脱派の瞑想者を教えたかったのです。解脱組が半分以上の時もありましたね。合宿定員9人のうちの4人が禅僧で、気楽な気分でやってきた参加者がギョッとしてたじろぐ、なんてこともありましたよ。
榎本 それは驚くでしょう。朝日カルチャーセンターでもそのような姿勢でやられていたんですか。
地橋 そのように意気込んでおりました。私も青かったので。若気の至りです…(笑)。まあ、すぐに自分は在家瞑想者の先生だと自覚しましたよ。大学院でゼミを受け持っている教授ではなく、小学校の先生なんだと考えるようになりました。ただね、いまは10日の合宿をお休みしてますが、再開すればまた解脱組の人たちが来るようになると思いますよ。
榎本 わかりました。では、いよいよご利益のほうに話を移したいと思います。先生はよく、瞑想は才能によって差が出るとおっしゃってますね。そこでお訊きしたいのは、瞑想はさっぱり進歩しないが、それでも、ご利益や効能はちゃんと得られる、なんてことはあるのでしょうか。瞑想ができない人は多いはずだし、瞑想は一向に上手くならない。勉強や仕事の集中力も上がったように思えない。これではとても見込みなし! と瞑想に見切りをつけてしまうのではないか、と心配になったりもするのですが。
地橋 榎本さんの場合は、どうでした?
榎本 はい。実は、妄想まみれで歩いていたのですが、まずは音が鮮明に聞こえるようになり、わりと早期に仕事の集中力が増したと自覚できました。そこがなんだか不思議だったのです。
地橋 榎本さんはいつも謙遜しますが、私から見ると順調に修行が進んでいますよ。まずその点をお伝えしておきましょう。
榎本 え、前回のこのコーナーで先生は、榎本は瞑想には向いていないなと最初は思ったとおっしゃってますよ。
地橋 そう、いちばん瞑想に向いてない、厄介な人が来ちゃったな…と思ってましたからね(笑)。興味本位で流行りの瞑想を覗きに来て、よく分かりもしないまま、あれこれ書き散らかすんだろうな…なんてね。
榎本 あいたたた……(笑)まあ、そういう気持ちもゼロではなかったかもしれません。
地橋 どうせすぐ止めるんだろうけど、徒労は百も承知で長年インストラクターやってきましたからね。たとえ一見さんでも、手抜きはしない、と当初から決めていたので、ちゃんと教えたでしょう?
榎本 はい、ありがとうございました。
地橋 話を戻すと、瞑想を続ければ、誰でも多かれ少なかれ必ず集中力はつきます。集中力というのは、瞑想の言葉で言えばサマーディです。そしてもうひとつ大事なのは気づき、つまりサティですね。サマーディとサティ。ヴィパッサナー瞑想をはじめると、まずこの2つのファクターを訓練することになります。そして、続けていけば、サマーディとサティの力は、個人差はあれど、右肩上がりに上がっていくはずなのです。
榎本 今おっしゃられたことと、先生が「瞑想は才能というものが左右する」とおっしゃられていることとは矛盾しないんですか。
地橋 はい。たしかにサマーディに関しては、生来の個人差というものがかなりあります。しかし集中しようと毎日がんばりさえすれば、必ず右肩上がりになるのです。傾斜の角度が高い人と低い人はもちろんいるでしょうが、そうなります。
榎本 筋トレすれば筋肉が付くように、瞑想もしかるべき脳回路を形成していくわけですね。
地橋 そう。サティの訓練は、気づく瞬間にはたらいている島皮質の神経回路を強化します。なので、メタ認知力(自己客観視)は確実に向上する。サティを入れるつもりなかったのに、日常生活や仕事中に、勝手にサティが飛び出して驚いた、などというレポートが出てくるのです。
榎本 つまり、瞑想が巧くできないと思っていても、その効果はある。つまり御利益はあるといことになりますか。
地橋 そういうことです。しかし、それはほんの一部にすぎません。そこがマインドフルネスとは決定的に異なるところです。
榎本 といいますのは?
ダンマの実践こそがヴィパッサナー瞑想である
地橋 ヴィパッサナー瞑想とは、原始仏教の教え(ダンマ)の実践法です。私は在家ですが、ブッダの瞑想の本質を絶対に崩すことなく、正しく教えてきたという自負があります。その本質の要は、【戒・定・慧】の「三学」に則って修行するということです。
榎本 【戒・定・慧】ですか。「定」は定力、つまりサマーディですね、「慧」は気づき、洞察の智慧のともなったサティでしょうか。
地橋 そうです。ヴィパッサナー瞑想を修行すれば、気づきも集中力も必ずついてきます。マインドフルネス瞑想が大流行したのは、特にサティ=気づきの後続切断効果が、自己を制御する能力、セルフ・コントロール力を爆上げするからです。ただ、一番目の戒を排除したことが、マインドフルネス瞑想の限界であり、闇の世界に通じていった元凶なのです。
榎本 ……闇!?(なかば呆然としつつ、続く)