加藤聖文著『満蒙開拓団-国策の虜囚』(岩波書店 2023)
本書は2017年3月、『満蒙開拓団-虚妄の「日満一体」』(岩波現代全書)として刊行され、2023年に「岩波現代文庫」へ収録されたものである。その際、書名を『満蒙開拓団-国策の虜囚』とあらためたうえ、 「関連年表」と文庫版のためのあとがきが付け加えられた。
2023年9月23日の毎日新聞に、「夢見た開拓 目にした地獄」「旧満州 疫病に飢餓、妻子手にかける上官」「収容生活 語り継ぐ94歳」という記事が載った。(※当紙では満洲ではなく満州としてあった)
有料記事なのでネットで見られるリード文、およびそれに続く一部だけを紹介する。
「鬼となり、目の前で最愛の妻や幼い子どもを手にかける上官がいた。寒さと飢えで多くの仲間が死んだ。ロシアによるウクライナ侵攻の約80年前、夢の大地を求めて海を渡った少年を待ち受けていたのは『地獄』の日々だった」(リード文)
先の見えない逃避行のなか当時19歳だった野田さんが見たのは・・・。
肺炎、発疹チフス、高熱による呼吸困難、栄養失調で容体が急変して息も絶え絶えの高田中隊長の妻。薬などはもちろんない。「ごめんなさい。先に逝かせてください」との妻の懇願に、「どうすることもできないことを悟った高田さんは震える両手を妻の首にかけながら『許してくれ。俺は子どもたちを守る。再び妻も取らない』と叫び、号泣していた」姿。そして、「絶命した母親の前で、幼い子どもたちは『お母さん!お母さん!』と泣きついていた。野田さんは『励ます言葉一つ見つけられなかった』」。
高田さんはこの地で家族6人全員を失ったという。
ところで、私の運転免許証には普通車のほかに、茨城県内原で11日間合宿講習を受けて取った大特車(カタピラ車に限る)がある。昭和42年当時、翌年から1年間の派米農業実習が決まっていることもあって役に立つかと思って夏休みを利用してのものだった。
茨城県の内原といえば、大学入学当初、満蒙開拓の夢と結びつけてよく聞かされていた場所だ。あまりピンと来ないかも知れないが、那須皓(しろし)、加藤完二、石黒忠篤、橋本傳左衛門と言えば、当時はとても偉い人たちという認識だった。日本の農村を救い、「日満一体」を標榜しつつ「王道楽土」「五族協和」を旗印に、満蒙開拓のプランを立ち上げかつ実行し、そこに参集した人々の指導者だったと。学科には満洲の開拓事業に携わったり、加藤完二の思想を受けついているような先生方もおられ、私たちもそんなスローガンを本気で信じていた。二十歳前後だった。
ところが、その後次第に満蒙開拓について書かれたものを読んだり、残留孤児が報道されるようになった。また帰国した叔父からも現地での民族差別の実態を聞くこともあり、次第にそんな単純なものではないと知るようになった。
しかしそれでも、敗戦後に避難民を襲った途方もない悲劇は、ソ連軍の突然の侵攻、開拓地の壮年男子の根こそぎ召集、南方移動による兵力の弱体化、ソ連侵攻に先立って逃げ出した関東軍とその関係者等々にその責任の大半があると思っていた。もちろんその通りではあるが、実はその背景には根本的な「国策の誤り」があったことをあらためて本書で痛感させられた。
著者は人間文化研究機構国文学研究資料館准教授。毎日新聞『今週の本棚』(2023.7.20)には、「情も理もある優れた研究者」と書かれている。(加藤陽子、池澤夏樹、奥泉光3氏による鼎談から)
本書は綿密かつ膨大な資料をもとに執筆されているため、本欄では概要だけに絞らざるを得なかった。
なおそれに先立ち、今紹介した鼎談から一部を引用したい。本書を読む上での理解の整理に役立つと思う。
・本書に登場する農林官僚は地主制や土地問題に関心が深く、何らかの「善意」で日本の農民を豊かにしたいと考えた。しかし、その学知は本人の意図とは異なった形で使われてしまう。(加藤)
・総力戦体制下の官僚制は戦後に持ち越され強化された。だからここで論じられているのは、まさに今の問題です。個々の官僚が無能であるという問題ではない。高い理想や理念を持ち、政策決定をしていくが、それが国策という形で集合体となると、ほぼ確実に悲惨な結果になる。(奥泉)
・よく日本人の宿病といわれる「無責任の体系」ですね。(略)本書では、そのメカニズムがよく描かれています。(加藤)
・悲劇を中心に置いて物語化したくなるのを抑え、システムの問題としてとらえて、満蒙開拓団を書いています。(奥泉)
・国策の責任の部分を読んで感動しました。おっしゃるとおり、結果の検証がないまま進んでいく。今で言えば大阪・関西万博でパビリオンが建たないとかね。(池澤)
・当時の国際的な通念でいえば開拓団は軍事組織でした。普通は女、子どもはいない。そのはずが関東軍の幕僚を除いて、開拓政策を推進した官僚らは、国内問題の延長で考えていた。だから、まさかソ連軍の攻撃の対象となるとは考えられない。国際法の教育を何も受けずに前線に放り出された、日本兵と同じ構造でした。(加藤)
・開拓団が入植した土地でいえば、現地の歴史的な土地制度を知らなかったり、実勢価格を知らなかったりしたために、開拓団員が思わぬ憾みを買っている。その背景もしっかり書かれていました。(加藤)
本書は6章で構成される。それぞれ個々の事例とともに、それを推進した人々、そしてコントロールを失っていく状況とその背景が詳しく述べられている。また多くの名前があがり、彼らの間の意見の違いや反目、事なかれ主義、現場を知らない机上の計算、無責任体制、それら複合的な要因が働いて自ずから悲劇が生まれる構造が出来上がっていったことが明らかにされる。
「はじめに」は上記毎日新聞記事のような、5人の子供を手にかけて殺した妻の夫の証言から始められる。
「これは第三次試験移民団として北安省綬稜県に入植した瑞穂村開拓民の証言である。敗戦間際の根こそぎ召集で開拓団を離れていたため生き残ったこの開拓民は、戦後もあの時起きた現実と向き合い続け、死ぬまでその苦しみから解き放たれることはなかった。彼は、なぜこのような苦しみを味わわなければならなかったのか、その原因も分からなかったし、そもそもなぜ満洲へ開拓団として渡ることになったのか、その背景も分からなかった。そして、家族を襲った悲劇の責任は誰にあるのかも分からなかったであろう」
一方、敗戦時に東満総省長だった五十子巻三(いらごけんぞう)は、4年間のシベリア抑留を経験しながらも「開拓移民こそ世界大調和による世界恒久平和完遂の礎石であり、かかる考えから私はソ同盟引揚後再び縁あって中南米移民のお世話をすることになった次第で、ここで開拓移民の根本理念を実現し、開拓移民を通じて万人ひとしく念願する世界恒久平和の完成に貢献し、一はもって七万有余の満州開拓殉難者の英霊を慰め、一はもって我が人生観――開拓万邦化一家、万民協和為一体――に合致した終生の仕事をしたいと思った次第である」と言う。
著者によれば、彼は終生「満州開拓が『五族協和』の実現に貢献したとの考えを持ち続けた」という。彼は決して詭弁を弄しているわけではなく、「民族協和の実践例として開拓政策を高く評価する考えは、加藤完治を筆頭に開拓政策に関わった者たちの意識のなかに大なり小なり、いだかれ続けてきた」。私が学生時代に教わったのもそうした見方だった。
確かに、現地民と共同作業したり、治安を回復させて現地民から感謝されたり、あるいは避難時に現地民から助けられたというような話しは多くある。しかし、「このようなエピソードをいくら繋ぎ合わせても満蒙開拓団の本質を明らかにすることはできない」し、なにより開拓団の集団自決や、「五人の子供を殺した母親がいたという事実は、満洲開拓政策が成功だったことを証明するものではない」と著者は主張する。
著者の課題は、このような隔たりは「何故に生まれるのか、その疑問を出発点として、満蒙開拓団の歴史を政策史の視点から検証」し、その根底にあるものを明らかにしてゆくことにあった。
「はじめに」のこの箇所は特に重要と思われる。それは、国策を推進する当事者は、その時点では「最善と思われる政策」を立案するのであって、「善意」や「熱意」が政策実現を後押ししていることが多く、同じことは満洲開拓政策にも当てはまるということになる。
つまり、例えば農村救済に熱心な人物であればあるほど「善意」でのめり込んでいく。それに対して、消極的や反対する人たちの多くは、無関心な都会人や地主制を維持したい既得権者。そこには、根源的な土地制度の問題を解決すべきとか、開拓政策が抱える侵略性に気づいて反対するという「先見の明がある賢人などほとんどいなかった」のが現実だった。
さらに、満洲開拓政策という国策は、人物の多彩さ、満洲国までを巻き込む政治状況の複維さ、多民族をめぐる間題、それらが絡み合って実態への接近を拒絶し続けてきた。本書は、その実態に接近しその歴史を考察していこうということであった。
本書はすべてがこの稿の筆者にとって新たな知見であった。ここで紹介するのは第1章の一部にすぎないが、それでも理解が深まることは間違いないと思う。
第1章:満洲移民計画の浮上
満洲に日本人を入植させようという発想は日露戦争直後まで遡るという。日本は関東州と満鉄(南満州鉄道株式会社)の租借地を実効支配するため、関連会社による入植を図ったが失敗する。それは、当時の政府には満洲移民を後押しする気はなく、大蔵省も予算的に否定的、拓務省は南米移民に比重を置いていたからである。
一方、当時農村の疲弊はますます深刻となり、国全体も不況のまっただ中にあった時、陸軍の中の一夕会系によって起こされたのが満州事変(1931年)だった。当初は日本による領有を考えていたというが、当時は常任理事国であった国際連盟の規約に違反することや他の国際的現実から独立論へと転換せざるを得なかった。しかし移民に消極的な陸軍に対して、関東軍では移民計画が急浮上してくる。その理由は、「傀儡とはいえ独立国家という建前をとる以上、新国家内部における日本人の人口比率が他民族に比べて著しく低いことは大きな問題」だということからだった。
一方国内ではどうだったか。
当時。目立った業務が南米移民くらいしかなかった拓務省にとって、満州移民は「省益拡大と組織存続の切り札となり得るものであった」が、しかし政府内では賛同を得られなかった。なぜなら、新規事業を抑制しようとする大蔵省はもとより、陸軍中央も関東軍とは異なって消極的だったため。
そうした時、農村問題に強い関心を抱いていた加藤完治、那須皓、橋本博左衛門、農林官僚の石黒忠篤らによって満洲移民「構想」が浮上する。本書ではこう描写されている。
「のちの満洲移民政策に関わる民間人や後述する官僚や学者の多くは、当初から誇大妄想気味の侵略主義者だったのではなく、マルクス主義でも資本主義でもない第三の道として協同組合主義を掲げ、現実の社会で深刻化していた農村問題――とくに小作問題――解決に向き合っていた者たちであった。満洲移民政策が「善意」から出発していた点がむしろ問題の本質を複雑にしていくのである」と。
本書では次に加藤完二の軌跡が述べられているが、本稿では略す。
一方、1932年には農村の窮乏に対して全国的に農村救済請願運動が起こり、農林省が主導する農山漁村経済更生運動が発足する。
この運動は「隣保共助」「自力更生」をスローガンに村落共同体を再建するもので、それを推進する人材育成のために「農民道場が全国につくられ、加藤が校長を務める日本国民高等学校がその中心施設と位置づけられた」。
しかしこの経済更生運動は満洲移民とは調和しない政策だった。なぜなら農林省は、「満洲移民は農村問題の根本的解決にはならない」と考えていたからである。そのため、満洲移民の政策的効果は限定的にならざるをえず、そうした事情から「初期の満洲移民はより軍事的色彩の濃いものとならざるを得なかったといえよう」と著者は言う。
一方、加藤は石原を介して満洲国軍政部顧問の東宮鉄男(とうみやかねお)と接触し、用地確保の目途をつける。こうして「加藤を介して関東軍と拓務省との移民案が形づくられていたが、政府内部で予算を獲得するためには陸軍省の同意が必要であった」。これはつまり、満洲移民計画が国策となるためには、「弱小官庁である拓務省よりも陸軍の動向が決定的に重要であった」ということだった。
陸軍は一枚岩として積極的だったわけではないが、最終的に同意したのは、「事変拡大にともなって兵力不足が顕在化していたことに陸軍中央も危機感をいだいていた」ためである。つまり、依然として張学良軍との戦闘は続き、反満抗日ゲリラによる抵抗も激しく、極東ソ連軍と直接国境を接するようになったため対ソ戦にも備えなければならなかった。にもかかわらず事変時の兵力は少なく2万人に満たない。そのうえ寄せ集めの満州国軍の軍事能力は低かったため、それを「指導していた東宮は日本人武装移民によってその穴埋めを図ろうと考えたのである」。
さらに、関東軍の兵力不足は陸軍中央でも認識されていた。「その応急的な解決策として、単なる農業移民ではなく兵力不足を補う武装移民という計画は、経済的にはともかく軍事的には一つの選択肢として魅力的に映ったのである」。
こうして、満洲事変を契機として高まった満洲への国民的関心と満洲移民いう国策が結合する土壌が形成されるなか、1932年秋に在郷軍人を主体とした軍事色の強い第一次試験移民が送り出されていった。
本書の目次は次のようになっている(ただし、節は第1章のみ)。その後の展開は要約のみなので、推測の上、もし関心を持たれたらぜひ直接読まれたい。
第1章 満洲移民計画の浮上
満洲事変と高まる移民熟/2農村不況の深刻化と満洲移民/3加藤完治の登場/4関東軍の移民計画/5拓務省の移民計画/6救農議会と経済更生運動の始動/7東宮鉄男の屯墾軍計画と試験移民の実現
第2章 迷走する試験移民
試験移民として慌ただしく進められた計画はたちまち問題が噴出、宣伝と現実との落差に直面した移民団には動揺が広がり、退団者が続出する。
満洲の土地はそもそも権利が入り組んでおり、そのような土地の無理な買収は現地を混乱させるばかりか現地民の反感を買い、ついには武装蜂起、土竜山事件に至る。
一方、日本国内では地方各県からは移民割り当てを求める声が相次ぐ。その結果、対満事務局が設置され、陸軍主導で満洲移民政策の一元化が図られるようになる。
第3章 百万戸移住計画と本格移民の実施
1934年12月に関東軍が策定した方策案によって本格移民への拡大が目論まれ、府県への割り当ても行われるようになる。そして、満洲拓殖株式会社(のちの満洲拓殖公社)と、日本国内で移民を斡旋する満洲移住協会が設立される。こうして集団移民が始まる。
一方では「百万戸移住計画」が突然浮上する。これは、「関東軍と極東ソ連軍との軍事バランスが崩れつつある危機感のなかで生まれたものであり、対ソ戦を前提とした軍事的要請に基づくものであった」。
第4章 経済更生運動と分村計画の結合
1937年度から満洲産業開発五カ年計画と同時に百万戸計画が始まる。
そうしたなか、農家適正規模論を基にした分村計画が構想されるようになる。そして、長野県の「大日向村による分村計画が社会的に注目を浴びるようになると、農林省も積極姿勢へと転換」、ついには経済更正計画と分村計画が連結して大量移民送出のメカニズムが出来上がる。
一方、有事の際の兵力補充対策と加藤の構想とが結びつき「満蒙開拓青少年義勇軍」が誕生する。これは当初から軍事目的であった。
第5章 戦局の悪化と破綻する国策
日満両国の国策として位置づけた「満洲開拓政策基本要綱」が1939年末に決定される。
これにより、「青少年義勇軍の拡大や満洲建設勤労奉仕隊の創設にとどまらず、戦時体制のなかで仕事にあぶれた中小商工業者なども開拓民の対象とされ、帰農開拓団として満洲へ」送り出される。
また地方に対して半ば強制的にノルマを割り当て、ついには、「被差別部落民や空襲雁災者などに対する社会政策の一環として開拓政策が位置づけられるように」なった。
一方、開拓団への食糧増産要求は激化し、後方支援基地としての役割がますます重視されるようになった結果、「開拓政策は本来の目的を失い、ついに敗戦直前に終焉を迎える」。
第6章 開拓団の壊滅と開拓民の戦後
防衛の軍事拠点でもあった開拓団はソ連国境近くに多く点在していた。しかし、成年男子の不在という状況のなかで、「ソ連軍の攻撃と現地民の襲撃によって集団自決が相次ぎ、逃避行を続けるなかで死亡者が激増、中国残留日本人という現在も続く問題の起源ともなった」。
かろうじて日本にたどり着いた人々も、すべての財産を処分していたため故郷での生活再建は不可能だった。一方、食糧不足が深刻となっていた日本では、「緊急開拓政策による食糧増産」が計画され、「開拓民らを対象として、国有地の開放と未墾地への入植を進めた」が、ほとんどが失敗に終わる。なぜなら、「開放農地の多くは、もともと農業に適さない荒蕪地」だったから。
さらに、「日本が独立すると再び海外移民が進められるようになり、ドミ二力移民のような悲劇が起きる。
結局、戦後になっても国策の失敗が繰り返されたのである。
「おわりに」で著者は、国民が主権者ではなかった時代には、現実はどうであれ国民は国策の「犠牲者」だったと言えなくもない。しかし、「現在においては国民が主権者であり、政策結果の責任の一端を担う以上、国策という怪物から目を背けてはならない。現在、そして将来にわたって生み出される国策をいかに制御していくべきか、満蒙開拓団の歴史は我々にその覚悟を自覚させるものなのである」と結んでいる。
さらに「文庫版のためのあとがき」で次のように言う。「満蒙開拓団の歴史はまだまだ未解明の部分」が多く、「関係者は確実に減少」している。しかし、「逆に埋もれていた記録が世に現れてくることもあろう。人の数だけ記録があり、真実がある。互いが矛盾し合う記録を突き合わせて事実に迫ることが、満蒙開拓団の歴史に翻弄された人びとに対する手向けでもあり、歴史学者としての責務でもある」と。
本書を読めば、私たちがいかにその時の社会の風潮に流され易いか、公共的政策はレベルにかかわらず決定は硬直化し、責任も曖昧に検証がないままに進められるかがよく分かる。慄然とするばかりであるが、その背景を鋭くえぐった本書は、とくに社会の舵取りを担う人々にはぜひ読んでほしい一冊だと思った。(M.I.)