【瞑想しない日は1日もなかった】

 自分で言うのもおこがましいですが、自分は仕事ができるとずっと思っていました。雇ってさえくれればどんな仕事でも人並み以上にこなす自信があった。しかし現実は違っていました。物覚えも悪くなっている。機転もきかない。同じミスを何度もする。この俺が? この俺に限って? こんなこともできないのかと、何度も落ち込みました。こんなはずではない・・・。
今思うと、自分ができないことを棚に上げて、指摘されると「なに、こらっ!」と頭の中で怒りがこみ上げ、今度ああ言うてきたらこう言い返してと、妄想で相手と言い合いをして最後は殴り合い(頭の中で)になってと、こんなことばかり考えては、仕事が終わるとグッタリして帰るという日々が続いていました。
そうか、自分の不甲斐なさを怒りでごまかしていたのか、なんともおめでたい男である。このときも仕事中にもかかわらず、自分が情けなくて泣きそうになリました。あ〜情けない。自分は新入社員で、1から教わって仕事を覚えていくしかないのだと、今の現状を認め、できることをひとつひとつやっていくしかないと、気付かされた瞬間でした。

 その後も、相変わらず同じ相手に怒りは出るものの、慈悲の瞑想やダンマのおかげで多少引き出しも増え、以前のように1日中怒りが出ていることは少なくなリました。先日も朝から怒りが出て、モヤモヤしていてサティも入らず、どうしたものかと、慈悲の瞑想をあの人にも、この人にも、手当たり次第やりまくったら、20分ぐらいで気持ちが落ち着いてきて、気がつけば通常のサティモードに切り替わり、スパスパとサティが入るようになっていました。「おっ!サティが入りだした」と喜んだり、ある時期怒りの対象の1人に対して、その人の前を通るたび「あなたのおかげで、ヴィパッサナー瞑想に戻ることができました。ありがとうごさいました」と日に何度も心の中で繰り返したりもしました。
 私はまだまだ、サティで怒りが消えることはほとんどないのですが、思考で因果論を当てはめたり、カルマのことを考えたり、頑張って視座の転換を試みたり、あるいはお釈迦様の言葉のなかで「ただ耐えるだけの人生であっても良い」と言う言葉を思い出しては「そんなこと言われても、それは無理です」と抗いながらも、なんとか怒りの心を抑え込んでるのが現状です。
結局半年やそこらで心が簡単に変わるわけもなく、イライラしてることは多いですが、そんな中、今怒りの対象は二人いたのですが一人はこの3月に会社を辞め、そのおかげで人の再編成があって、もう一人とも一緒に仕事する時間が半分に減ったりと、現状も変わっていったのには驚いています。

 嫌なこともまだまだいろんなことが次から次と出てきます。ヴィパッサナー瞑想やってるのに、とも思ったりもすることもありますが、結局全部自分の反応系の心が勝手に、怒ったり落ち込んだりしているだけで、この反応系の心を書き換えない限り、苦しみから解放されることはないのだろう。この腐りきった心を変えていくには、このまま本気で仏教を学び、ヴィパッサナー瞑想を続けていくしかないのだろうと思います。

 新たにヴィパッサナー瞑想を始めて半年が経ちましたが、自分の中ではこのヴィパッサナー瞑想は「効く!」と言う感想です。この効くという言葉は本来使うべきではないのでしょうが、自分の中ではそんな感じです。
世の中には、宗教も含めていろいろなメソッドがあります。どれもそうなのでしょうが、こうしなさい、ああしなさい、と言う教えがあって、それをやりさえすればそれぞれメリットはあるのでしょうが、ただ合うとか合わないとかも含めて、続けられるかどうかが一つの縁なのかなと思います。私もいろいろやってきましたが、簡単なことでもなかなか続かない事が多かったです。  

続かないから変化が起きない
変化が起きないから、やらなくなる。
やらなくなって、だめだったと諦める。
また次の事に手を出す・・・。

 私にとってのヴィパッサナー瞑想は、前回の時もきちんとやったとは言えませんが、三年間1日もやらない日がなかったというのが、すごく自分の中で縁を感じているのと、今回も半年やそこらですが、何もやらない日はほとんどありませんでした。中には10分だけのサティの瞑想しかやらない日はありましたが、前回との大きな違いとしては、常にダンマに触れていることが大きな違いです。
スマホのおかげで、YouTubeやグリーンヒルの月刊サティを含め、先生の「X」や今日の一言など簡単に目にすることができるのが、本当に助かります。
今回この体験談を書かせていただくことになり、日によって完全に不善心モードになっては自分にこんな投稿する資格がない、と落ち込んでいる時でもいろいろ考えながら文章を書いていると、知らず知らずに不善心モードが治まっているのに気づくことも何度かありました。

 本も、月刊サティで紹介されたものや、先生が勧められるものを読んだりと、この半年ヴィパッサナー瞑想にドップリ浸かった生き方になってきたことに感謝しています。まだ食事の制限や、クーサラはほとんどしてないので、これからの課題として自分に課せるつもりです。

   今回この文章を書かせていただくにあたって、この数十年の自分の歴史といえば大げさですが、じっくり振り返ることもできました。思い起こすと、結構瞑想に関わってきたなぁと思います。今は、ヴィパッサナーというか仏教というのは知れば知るほどやり切る難しさを感じますし、ゴールが遠すぎるようにも思え、幸せになりたいと思えばそれは欲だと言われ、苦を感じればお前が蒔いた種だと言われる世界。 ただ、この因果論やカルマを知識としてではなく、ほんとうに腹に落とし込んだとき、すべてが受け入れられるのかもしれない。それに少しでも近づけるのか、どこかで「やっぱり無理!」となる日が来るのか、それは知る由もありませんが、今はとにかく五戒を守り、毎瞬毎瞬サティを入れ、やがて智慧につながるその日を夢見て精進していくつもりです。いつかまたその後の瞑想体験が書けるときが来るように頑張ります。

 最後に、いつも夜、三帰依をするときに、このダンマを、今この時代の自分が知ることができているのは、連綿と続いてきたサンガのおかげだと感謝の気持ちが湧いてきます。その教えを引き継がれている地橋先生や、グリーンヒルのスタッフのかたがたにも心から感謝申し上げます。ありがとうございました。これからも至らぬ凡夫ですが、お導きのほどよろしくお願いいたします。

 生きとし生けるもの、すべての生命に悟りの光があらわれますように……。
 合掌
(完)