「月刊サティ!」2005年1月~2005年5月号に掲載されましたタイの名僧アチャン・チャーによる法話の第2回です。

◎私たちの真の家―死の床にある老在家信者への法話(1)


 さあ、法に敬意を払いながら話を聞こうと心に決めなさい。私が話をしている間、ブッダご自身があなたの前に坐っておられるかのように、私の言葉に集中しなさい。目を閉じて、リラックスして、心を落ち着かせ、一点に集中しなさい。完全なる覚者に敬意を示すために、智慧、真理、清浄の三宝を、謙虚な気持ちで心にとどめなさい。

 今日、あなたに渡すような物質的な物は何も持ってきていません。持ってきたのはブッダの教えである法だけです。良くお聞きなさい。あなたが理解しなければならないことは、大いなる徳を積み上げたブッダ御自身でさえ肉体の死を避けることができなかったということです。ブッダは老齢に達されると、肉体を捨て、その重荷から解放されました。ですから、あなたも多くの年月を自分の肉体に頼ってきたことに満足することを学ばなければなりません。もう十分だと感じるべきなのです。  このことは、あなたが長い間使ってきた食器――例えば、皿やコップや受け皿――に例えることができます。最初に手にした時にはきれいで輝いていたのに、長い間使うと傷み始めます。既に壊れてしまった物もあるし、無くなってしまった物もあります。残っている物はますます痛んでしまいます。食器には安定 した形状などありません。食器の本性はそういうものなのです。
 あなたの肉体も同じです――生まれたまさにその日から、幼年期、青年期を経て、老人となった今に至るまで、常に変化し続けてきました。そのことを受け入れなければなりません。ブッダは、「諸々の条件(行、サンカーラ)は、内的条件であれ、身体的条件であれ、外的条件であれ、無我であり、その本質は変化することである」と言われました。はっきりと理解するまでこの真理についてよく考えなさい。
 ここに衰弱して横たわっている非常に小さな肉の塊はサッチャダンマ、すなわち真実です。この肉体の真実はサッチャダンマ(真理の法)であり、それはブッダの不変の教えなのです。ブッダは私たちに、「肉体を見て、肉体についてよく考え、その本質を受け入れなさい」とお説きになりました。私たちは、肉体がどのような状態にあろうとも、肉体と平和に共存しなければなりません。ブッダは、「牢獄に閉じこめられているのは肉体だけであって、肉体と共に心も閉じこめられてはならないことを私たちは確認すべきだ」とお説きになりました。
 ですから、歳を取るにつれてあなたの肉体が衰え、朽ち始めたとしても、それに抵抗してはいけません。心を肉体と共に朽ちさせてもいけません。心は切り離しておくのです。物事のあり方の真理を理解することによって、心にエネルギーを与えるのです。ブッダは、「これが肉体の本性であり、他のあり方は存在し得ない――すなわち肉体は、生まれたからには、歳を取り、病にかかり、そして死ぬ」とお説きになりました。これが、あなたが今直面している大いなる真理です。知恵をもって肉体を見てそのことを理解しなさい。

 あなたの家が洪水に流されたり、全焼してしまうなどどのような危険に脅かされようと、関係するのは家だけにしておきなさい。洪水があったとしても、あなたの心まで洪水に流されてはいけません。火事があったとしても、あなたの心まで焼かれてはいけません。洪水で流されたり火事で焼かれたりするのは、あなたの外側のものである家だけにしておくのです。心が執着から離れるのを許しなさい。機は熟したのです。
 あなたは長い間生きてきました。目はとても多くの形や色を見てきました。耳は非常に多くの音を聞いてきました。あなたはとても多くの経験をしてきたのです。そして、それはそれだけのこと――単なる経験でしかないのです、あなたはおいしい食べ物を食べてきましたが、おいしい味はすべて単なるおいしい味でしかなく、それ以上のものではありません。まずい味は単なるまずい味、それだけのことです。目が美しい形を見たとしてもそれだけのこと、単に美しい形でしかありません。醜い形は単に醜い形でしかありません。耳は魅惑的で美しい音を聞きますが、それ以上のものではありません。耳障りな不協和音も単にそれだけのものでしかありません。

 ブッダは、「金持ちであろうが、貧乏人であろうが、若かろうが、年寄りであろうが、人間であろうが、動物であろうが、この世のいかなる存在も自分自身を長い間ひとつの状態に維持することはできず、すべてのものは変化と分離を経験する」と言われました。これは私たちが変えようとしても変えられない生命の真理です。しかし、ブッダは、「私たちにできることは、心と体についてよく考え、心と体が無常であることを理解し、心も体も『私』や『私のもの』ではないことを理解するようになることだ」と言われました。

 心も体も一時的な実在でしかないのです。それは、この家と同じです。あなたのものであるのは単に名義上のことでしかなく、どこにも持っていくことはできません。これはあなたの財産や所有物や家族についても同じです――名目上あなたのものであるにすぎません。本当はあなたのものではありません。大自然のものです。でも、この真理はあなただけに当てはまるのではありません。誰でも、ブッダやブッダの解脱した弟子たちでさえ同じ立場にいます。ブッダと私たちが違うのはただ一点にあります。それは物事をありのままに受け入れる、という受容の仕方であり、それ以外にはあり得ないことをブッダたちは理解していました。

 ブッダは私たちに、「この肉体を足の裏から頭の上まで、そして今度は逆に頭の上から足の裏まで入念に見て、吟味しなさい」とお説きになりました。肉体をちょっと見てご覧なさい。どういうものが見えますか。そこに本質的に清らかなものがありますか。変化しない本質を見つけることができますか。この肉体のすべては着実に朽ちつつあるので、ブッダは私たちに、「肉体は私たちのものではないことを理解しなさい」とお説きになりました。
 肉体がこのように変化するのは当然のことです。なぜなら、すべての条件付けられた現象は変化するからです。どうやって肉体のあり方を変えることができますか。実際、肉体のあり方に問題はありません。あなたを苦しめているのは肉体ではなく、あなたの間違った考え方なのです。正しいものを間違った見方で見れば、必ず混乱が生じます。
 これは川の水と同じです。水は、低い方に流れ下るのが自然であって、高い方に上ることはありません。それが水の本性です。ある人が川岸に行ってそこに立ち、水がすみやかに下流に流れて行くのを見て、愚かにも上流へ流れ戻ることを望んだとしたら、その人は苦しみます。その人が何をしていようとも、考え方が間違っていれば心の平安は得られません。間違った見解を持っていると、流れに逆らう考え方をしているので、その人は不幸です。その人が正しい考え方を持っていれば、水は必ず低い方へ流れるものだということを理解します。この事実に気づき受け入れるまで、その人は動揺し、狼狽します。
 必ず低い方に流れる川の水は、あなたの肉体と同じです。かつては若かったのが、歳を取り、今では死に向かって曲がりくねりながら流れています。このようでなければいいのに、と望んではいけません。それはあなたの力で変えられることではありません。ブッダは私たちに、「物事のあり方を理解し、物事に対する執着を手放しなさい」とお説きになりました。この手放すという感じ方をあなたの依り処としなさい。(つづく)
 Ajaan Chah「Our Real Home」よりまとめました。(文責:翻訳部)