タイ森林僧院で迎えた7日目は、午前2時ごろに目が覚めた。起き上がって、歩行瞑想を始めることにする。しばらくすると手足に激痛が生じてきた。激痛は同じ部位で長く続くのではなく、短い時間間隔で激痛が体の様々な箇所に現れるという具合だった。原因はよく分からない。あまりに痛いので、このまま集中を深めるともっと痛くなるのではないかと不安が頻出して、足裏の感覚に集中できなくなった。痛みは結構長く続いた。朝食も痛みに耐えながら取った。それでも痛みが永続するわけではなく、次第に消えていった。印象的な体験だった。おかしな話だが、その後帰国してから、また激痛を体験したいという気持ちが出てきた。理由は、どうも激痛のことを集中が深くなった証と考えているからのようだ。まさか激痛に執着するとは。
 9日目の午後に日本人のお坊さんと話していると、アチャン・チャーの法話集「無常の教え」(訳: 星飛雄馬)の一節を読んでくれた。ある比丘がアチャン・チャーに「私は静けさを得たいのです。瞑想をし、自分の心を平安にしたいのですが」と言うと、それに対してアチャンは「そらそうじゃろう、お前さんは何かを得たいのじゃな」と返答した。それを聞いて、自分も何か興味深い瞑想体験を得たいと思っていたなと深く納得した。夜6:30からの全体瞑想のときに、坐禅をしながら次々と現れる瞑想に対する欲に注意してサティを入れていった。すると瞑想への欲が治まっていき、平静になっていく。そのうち息苦しくなってくる。何が起こっているのかと調べてみると、お腹の膨らみ・縮みに集中しているときには、呼吸が止まるようになっているのだった。お腹の感覚を取るのはやめて、意識的に呼吸すれば 楽になるのだが、再びお腹の感覚に戻ると呼吸が止まってしまい、息苦しくなる。これを何度も繰り返した。印象的な体験だった。瞑想中の心は平静で気分は良くも悪くもなかったが、呼吸のおかげで身体的には苦が多かった。今でもこの体験を思い出すことがあるが、また同じような体験をしたいという気持ちは出てこないようだ。
 10日目は出発日で、準備や掃除で忙しかった。午後になって、20日間のリトリートを終えたばかりのアチャンと話をした。アチャンの話の中で印象的だったのが「心随観が深まっていくと、心の深くにあるネガティブな感情が見えてくる(不好正念)、そのためにはまず心地よい現象にサティが入る(好正念)必要がある」というものだった。それを聞いて6日目の夜の坐る瞑想を思い出して、「気分が良くなったときにサティを入れても気分の良さが消えなかった」と言ったら、アチャンは「それはサティが未熟だからだ」というような説明をされた。サマーディの力で現象の無常をよく理解すれば鋭いサティが入ると言っていた。その話を聞いて私が思ったのは、気持ち良さに執着しながらサティを入れていたので現象が消えなかったのではないかということだった。その後、夜行バスでバンコクに向かい、観光にも興味がなかったので空港に直行した。空港では待ち時間が15時間くらいあった。その間にドロドロに眠くなったり楽しくなったり、心が様々に変わった。暇だったので空港内を歩いていると、ふと幸福感を感じたので、注意しながら「幸福感」とサテ ィを入れてみる。その結果をよく見ようと思って「観察している」とラベリングをして(このラベリングを抜かすと妄想に流れる傾向がある)、心と体を観察していくと、なんと幸福感が消えていた! アチャンの言った通りだった。同じようなことがあと何回も起こった。印象的な体験だった。
 今回は途中で本を読んだり、托鉢に行ったり掃除をしたりと、グリーンヒル合宿に比べるとゆるめの修行だったが、それでも深い集中もあったし、このまま1カ月くらい修行を続けてみてもいいなあと思った。なんとか長めの休暇をとってまた寺に行ってみたい。